ハイデガーのフッサール批判(1) [ハイデガー]
ハイデガーがフッサールを批判したものは、私の知る範囲では「ブリタニカ草稿」「存在と時間」「時間概念の歴史への序説 全集20巻」「現象学的研究への入門 全集17巻」などがあります。
しかし、批判内容はほぼ一点であり、それは次のような言葉です。
「意識は「存在するに何ものも必要としない」という意味で絶対的に与えられてある」
「志向性を現象学の主題的領野として取り出すことにおいては、志向的なものの有への問は究明されないままになっている」(以上、時間概念の歴史への序説 第11-12節)
「この領域「意識」はいかなる種類の有なのか」(現象学的研究への入門 第6節)
「自我を…出発点にすることを禁じる」
「世界なしの単なる主観が、存在しているのでもない」
「自我の…本質的規定性は実存論的に解釈されねばならない」(以上、存在と時間 第25節)
そして、最も端的に批判しているのは「ブリタニカ草稿(添付文書)」で、それは次のようなものです。
「世界」を構成している存在者の存在様式とはどのようなものでしょうか?人間は事実ではなく、実存しています。「驚嘆すべきこと」は現存在の実存体制が超越論的構成を可能にしていることです。身体論、純粋心理学の考察は、人間を具体的なひとまとまりとして扱うことで可能になります。構成するものは「無」ではなく「存在者」です。「絶対的な純粋自我」の存在様式とはどのようなものでしょうか?
つまり、フッサールの説くように、世界が超越論的主観、絶対的な純粋自我によって構成されるならば、それは存在的には「無」から構成されたものである。世界は無から構成されるというのは問題であり、世界を構成する実存体制、存在者の存在様式こそ明らかにせねばらない、というのが批判の骨子です。
それに対するフッサールの返答(資料B)は、次のようなものです。
世界や事物が存在するということは、自我主観が存在し、世界や事物を表象、知としてもつことである。私の存在も、自我主観により構成されたものである。あらゆる存在論は、超越論的主観から明らかにされる。
対立構図としては、「世界は無(純粋自我)によって構成されず、構成する存在者(現存在)の存在様式こそ明らかにすべきである」「無から有は生まれない」というハイデガーと「存在者の存在様式も自我主観によって認識される」というフッサールということです。
これは、どちらが正しいのでしょうか?
結論から言えば、フッサールの方が正当です。しかし、フッサールは「それでは、世界は無から構成されるではないか」というハイデガーの批判に「疑問を解くようには」答えていません。フッサールは次のようにも言っています。
自我は、本質構成要素の点で全く空虚であり、開陳されるような内容を全く持たず、それ自身として元来、記述できないものである(イデーンI-2 第80章)
では、「世界が無(空虚)から構成される」という批判に、現象学としてどう答えればいいのでしょうか?
これは「他我論」を経由することで理解が得られると考えています。私の見る限り、フッサール現象学の明らかな誤りは「他我論」くらいで、その他はかなりの水準にあり、問題があるとしても「微妙」な問題です。
では「他我論」について考察していきます。
参考になりました。哲学についての本は著者との相性もありますのでなかなか読みづらいものが多いのですが、今回はフムフム、とうなずきながら読めました。今後も続けて読ませていただきます。宜しくお願いします。
by クロネコ (2007-05-17 06:48)
>今回はフムフム、とうなずきながら読めました
そうですか。それはよかったです。
なかなか書く作業は慣れないのですが、また見て下さい。
by YagiYuki (2007-05-19 21:13)