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ハイデガーのフッサール批判(3) [ハイデガー]

フッサールの「自我」というのは「生の本質」のことです。このことにより、「世界が無から構成されるではないか」というハイデガーの疑問に答えられます。

つまり、「自我」は「無」ではなく、「生の本質」であり、「生む」ということ。
「生」は「理念=本質」であり、存在的には空虚かも知れないが、そもそも存在というのは、「自我」と相関的なものでしかないということ。存在的に「無」という批判は背理であり、理念と存在的実体の区別が未分化なこと。が理解されると思います。

ハイデガー存在論は、「存在の形而上学」として批判されていますが、それを逃れてはいません。

「存在者の存在様式がある」「存在者の不可解さがある」と言ってもそれを「認識している」ということが第一次の事象としてあります。「現象学の理念」でも言われているように、どうすれば「哲学は出発出来るのか」という問題があり、まず「~を認識している」(志向している)ということを第一に置かなければ、全ては逆さまの論理(循環論)に陥ります。

「認識する」ということから出発しなければ、認識を可能にする存在、存在様式は何か?という思考に入り(出発存在要素を措定し)、それをまず措定したところで、それを認識しているのは何か?と論理は循環します。

「存在者の不可解さ、神秘」と言う時点でハイデガーにはこの理解が欠けています。「不可解さ、神秘」は現象学的還元によりエポケーされます。「不可解さ、神秘」(という客観的なもの)が存在するのではなく、それを認識しているという事象(現象)があるのです。

つまり、「存在者の存在様式」があるというのは、結局「自体的な存在様式」ということであり、独立した存在様式を措定することになり、背理な主客問題が現れます。フッサール現象学では、「存在者の存在様式」も「我と不可分(自我と分離出来ない)」のであり、存在様式を認識している、ということが第一事象となります。

「世界」の説明では、フッサールの場合「世界は意識によって構成される」ですが、ハイデガーでは「世界は現存在により暴露される」となります。これは「目覚めている人」であればいいのですが、「寝ている人」の場合はどうでしょうか?

「寝ている人」の場合、世界は暴露されません。しかし現存在としては存在するのであり、ハイデガーの説明では、混乱が生じます。結局、「目覚めた現存在」は世界を暴露するが、「眠った現存在」は世界を暴露しない、としなければ辻褄が合わず、フッサールの「目覚めた意識、志向性」の説明に近づいていきます。

フッサールの説明では、「寝ている人」(の視点)では、「意識の構成的働き(統覚)自体がそもそも起こらない」(イデーンII-1 第23節参照)で終わりですが、ハイデガーの場合「寝ている」現存在の存在様式の「視点」からのありえない説明が発生し、これは実は第三者的な視点、いつの間にか発生した客観説明です。

ハイデガーの「世界内存在」という存在論的説明で、視点はどこにあるのでしょうか?結局、どこかの外部視点から捉えた存在の現象学的構図でしかなく、「存在の形而上学」であり、哲学的には背理です。(もし外部視点ではないと言うなら、本当は「視点」があるはずなのに「視点はない」と仮定しているだけです)

そういう訳で、「古い弟子の誰一人として現象学的還元を理解しているものはいない」(フッサール)ということになります。


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