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意識の記述についての現象学批判 [現象学批判]

・現象学は「経験を反省して記述可能である」というが、記述するときには、その経験は既になく、その経験を思い出すか、現在の経験を記述するというありえない構図(記述することは記述できない)かどちらかである

・意識はどのように描いても、描かれたものは、直接的な所与、経験ではない

これは、割とよくある現象学批判の一つですが、簡単に言えば、

・経験を反省すると、元の経験と異なる(から経験は記述できない)
・意識自体は記述できない

という批判です。

しかしこれは、現象学が「本質学」であり「本質、ノエマ的意味の記述」ということを誤解している批判です。

そして、「イデーン I」「内的時間意識の現象学」「現象学の理念」などでフッサールが既に回答(例えばヴァットの批判への回答等)している問題です。フッサールの回答を加味して更に疑問・批判ならまだわかるのですが、そういう訳ではありません。これ以外にも既にフッサールが回答している問題をそのまま批判している例はよくあります。批判する側も、受ける側もフッサールの回答を前提としていないことになり「現象学批判、議論」として機能していません。

フッサールの回答を引用すると「膨大」なので、要約してみます。

「経験を反省すると、元の経験と異なるから、元の経験は記述できない」という場合、既に、「反省内容」と「元の経験」を比較し、異なる、と言っているのであり、「元の経験」は把握しているのである。「元の経験を把握している」のに「元の経験などわからない(記述できない)」とは矛盾である。もし、「元の経験は把握していないが、異なるはずである」と言うなら、何故把握してもいないのに「異なるはず」と言えるのか?

どんな「反省」も、意識の変様である。変様された意識も、元の意識と「同じもの」についての意識で ある。この平行的な体験は、共通の本質をもつ。既に変様した体験から出発しても、元の体験へ連れ戻される。

体験は、一つの流れであり、この流れの跡を追うことは出来るが、流れた過去は、反省しても失われている。ただ過去把持の形式においてのみ、流れ去ったものについての意識をもつ。対象は過去把持をもった時間意識の中で同一の「対象」として把握されるのであり、そのつど目に映ったものが把握されているのではない。

本質把握の目差しは、反省的に対象化されていない体験も捉える。「反省」は、それ自身が「一つの新しい体験」であり、この体験の中に、「反省されていなかった体験」も取り込まれる。体験に「反省的直観」を加え、「理念を観て取る働き」により「本質把握」を行なえば、体験は「持続する」。

流れ行く具体物は、術語化などできない。しかし、本質に対しては、厳密な概念的把捉、本質分析を施しうる。我々が記述するのは、知覚一般の類的本質であり、想起一般、意欲一般等の、類的本質である。従って、志向的な相関者を忠実に記述する場合、偶然的ではない、本質法則によって規制されている性格を、厳密な概念において確定しなければならない。

我々は、「現出するものそのもの」を、忠実に記述することができる。知覚をノエマ的観点において記述することができる。体験のどれにも、ノエマ的意味が「その中に」「住みついている」

要するに、現象学が記述するのは「本質」の記述であり、意識の対象について記述可能であるというのは、「(ノエマ的)意味」の記述が可能であるということです。

例えば、「カエルの声が聞こえる」というのは、単に経験しようと、反省しようと、その本質内実に変化はなく、「意識体験は反省により変様しても」「本質は変化せず」その本質は記述可能である、ということです。


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大絶画

はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムにフッサール著『内的時間意識の現象学』をリクエストしました。みなさんの投票次第で『内的時間意識の現象学』が復刊される可能性があります。
投票ページへはURLからアクセス可能です。投票のご協力ください。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。
by 大絶画 (2011-02-24 22:21) 

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