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実存は本質に先立つ? [哲学問題]

サルトルは「実存は本質に先立つ」と言った。

これは実存哲学~現代にまで続く一つの志向であり、我々の実感とも一致する。

しかし、よく考えないといけない。

この言葉は、本質論なのである。

「実存は本質に先立つ」という本質、理念について語っているのである。

この倒錯が理解されうるだろうか?
このことは多くのことを物語るのだが、理解されうるだろうか?


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Joker

>「実存は本質に先立つ」/『実存主義とは何か』でしたか?

ハイデガーの『存在と時間』で提起されたダーザインの≪被投性≫を言うわけですから、この≪被投性≫がダーザインの存在の「脱自的構造」を意味し、この構造が時間的(流れ)であるため、それは「時間性(時間なるもの)」と呼び換えられて来る。

また、この≪被投性≫は、「自身に先立って、世界内部的に存在するもののもとに存在する」という「自身(本質)の不在性/無」を伴っています。この「まずそこにいない/無」が、他の諸存在がそこを訪れるための器のように存立し、現象が生起します。そこにおいて、諸対象が構成される、というわけですね→「そこにおいて主観にとって超越的なものの意味が構成されるので、その領域は超越論的主観性の領野と呼ばれる」ブリタニカ第二草稿:現象学の理念(ハイデガー)。

「超越論的主観性」が「時間性」であるのも、事象についての経験(現象の構成)を可能にしているのが、ダーザインの存在である「脱自的・時間的構造」だからということになります。

非常に多くのことを、しかも核心的なことが語られているわけですが・・・サルトルが言うと、ちょっと軽くなるかも(笑)。
by Joker (2006-06-23 12:58) 

YagiYuki

『実存主義とは何か』ですね。

コメントで言われているのは、ハイデガーの立場ですが、私はあまりハイデガー的なものを支持していません。

「それは何故か」については「ハイデガーのフッサール批判について」と「現象学の根本問題?」で可能な限り書いています。

これについては、何故フッサールがハイデガーに対して「現象学的還元をわかっていない」と言ったのか、とリンクしていると考えます。

「時間」も「存在」も前提しない、超越論的主観性、ということなのですが・・・

だから「実存は本質に先立つ?」はサルトルの言葉を借りて「ハイデガー的なもの」の流れを批判的に扱ったつもりです。

ハイデガーよりの考えが主流なので、なかなか納得がえられないかも知れませんが・・・
by YagiYuki (2006-06-23 17:09) 

Joker

>ハイデガーは「循環論証の異議は、常に不毛であり、何事も解決せず、根本的研究を妨げる」(存在と時間 第2節)と言っています。しかしこれは開き直りに近いものであり、循環はもちろん論理矛盾であり、それはハイデガーの存在論が「存在の根拠」なるものを求める形而上学的思考だからです。

↑あちらのこの書き出し部分ですが、もしかしたら「誤読」かなと思って読みました。訳文が悪過ぎたりとか。文脈から、「現象学的方法への批判」をあらかじめ予想しての「弁明もしくは弁護の言説」だからです。できれば、もう一度、確認して下さい。

「現象学的還元をわかっていない」というのも、それは是非の判断でしょうか?
フッサールを読みこなす人に、ハイデガーを読みこなせないはずがないし、用語の違いも大局を見ていれば、そんなに分からないはずもないし・・・傷口を広げるよりは、縫い合わせる思考=「歓待」(デリダ)の方がいいようにも思います。フッサールはフッサールだし、ハイデガーはハイデガーだし・・・。それに、「キミは全く分かっちゃいない」と言う教師と、「キミの中に、それはこんな風に息づいているんだよ」と教えてくれる教師と、どっちが良い教師であるかは、自明。どっちもできないので教師にならなかった人は、賢明。

>「時間」も「存在」も前提しない、超越論的主観性、ということなのですが・・・

超越論的主観性が諸対象・現象の諸経験の「構成」にかかわるものであるかぎり、この主観性は「諸知覚の取り集めと統一」=「構成」を「時間」において行うものです(これは、超越論的哲学の発端であるカントから始まっていた視座です)。ですから、この領野に踏み込んで行くと「時間」に出くわすことになります。「過去を保持しつつ-未来へと予持されつつ-そのつど現在であるところの意識」という構造的全体が「根源的時間」と呼ばれます。この「根源的時間」から一般に思考されるような「計測的・時計的な時間」も可能となるから、こうした「可能性の根拠」という意味で、それは「根源的」と述語化されます。ですから、別に「前提している」わけでもないかなと。「現在」という現象の立ち現れる場がいかにして生成して来るか(可能となるか)は、『存在と時間』の方が明快でわかり易いと思いますが・・・

超越論的主観性の領野を「時間」に繋げないと、この「根源」から「生」・「歴史」の方向に抜ける(旋回する)通路を見失う気がします。もしこうした通路をも遮断した「超越論的主観性」というものを考えるとして、そこから「世界」「生」「歴史」といったものがいかに開闢して来るのかを統一的に把握することはできません。「世界の生成」が「時間」に由来するのなら、「世界の崩壊」はデリダの言う「差延」に由来し、この「差延」は恐らく≪反・時間≫として、「時間」という根源の相面をなすだろうことも射程に入って来ます。
by Joker (2006-06-23 23:06) 

YagiYuki

今、自宅を離れているので手元に本がないのですが、「循環論証の異議・・・」は訳文(原訳)そのままだったはずです。訳文が悪いのでもないはずですが、しかし他の箇所でも循環論に対してハイデガーはそれは仕方ないという態度だったと思います。

でも、「(現)存在が超越論的主観を可能にする」という思考は「存在を前提して、存在を問う」形而上学的思考で、どうしても循環論になると思うのですが・・・

「現象学的還元をわかっていない」というのは、フッサールが「古い弟子の誰一人として現象学的還元を理解しているものはいない」と言ったことに対応しています。出典元は自宅に帰ればわかりますが・・・(もし必要であれば書きます)

ただ、ブリタニカ草稿の応酬でも明らかなように、ハイデガーがフッサールの超越論的還元の発想の批判から、超越論的主観を可能にする存在ということで「存在論」に向かったので、超越論的還元(現象学的還元)の是非には両者で断絶があると思います。

>傷口を広げるよりは、縫い合わせる思考

これは、そうですね。
ただ私にはこの溝は結構深くて、縫いにくいような気がします。

>超越論的主観性の領野を「時間」に繋げないと

これはそうですね。
時間論はややこしいですが、ハイデガーもフッサールの「内的時間意識の現象学」を存在論的に展開したようなので、元の発想は同じですね。

フッサールの場合、時間もどのように超越論的主観性の中で「意識にどのように立ち現れていくか、意識の中でどのような役割を演じているか」という本質分析に向かっていたので、やはり私にはフッサールの方がしっくりいくのですが・・・
by YagiYuki (2006-06-24 03:15) 

Joker

現象学的還元の遂行による「経験的領野から超越論的主観性の領野へ」(ツー・デン・ザッヘン・ゼルプスト)・・・

経験的領野と超越論的主観性の領野とは、ジェミニ(双子)です。死すべき者カストールの謎を解くのに不死なる者ポリュデウケースをもってする・・・なるほど見た眼には循環論証です。あるいは、大文字の「在る」を定義するのに、その定義中に小文字の「在る」を使わざるを得ないというパスカルの指摘などもそうですね。でも、これは、この二領域がジェミニ(双子)であることから由来します。であるなら、循環論証の異議は、この二つの領域の在り様を把握していない、そのような異議に現象学的方法を批判する資格はない・・・という弁駁であり、明快な回答だと思います。ここでは、ハイデガーはまったく間違っていません。そうした異議の障壁を突き抜けて踏み込まなければならないとこの方法への揺るぎ無い信頼から主張しているわけです。恩師フッサールの正当性を擁護していたかと思うのです。

>「現象学的還元をわかっていない」というのは、フッサールが「古い弟子の誰一人として現象学的還元を理解しているものはいない」と言ったことに対応しています。

あれは・・・例の「ペーパーナイフの思い出」は?/「古い弟子の誰一人として現象学的還元を理解しているものはいない」という話と「対」になるような印象がありますが、どうなのでしょう?

フッサールとハイデガーの「差異」は、「壊れ行く世界」を前にした≪構え≫のようなものだったようにも思えます。「戯れと静寂」:「危機と精神(祈念)」みたいな?・・・だいたいこの辺りの展望を目撃した後、超越論的哲学の創始者カントへと旅立った個人的経緯があります。細部が読み込めずに、「余り深くない小川を飛び越してしまったー」(ドゥルーズ+ガタリ:『アンチ・オイディプス』)なのかも知れません。

フッサールでは、カント的な「物自体」への言及って、ありましたか?/私的には、現象を越えて≪物自体を問題視する人間の頭≫がおバカさんなので、こういうのも超越論的哲学(ジェミニの思考)に対するまったくの無理解(循環論証の異議と同じく)に他ならないと感じてしまいます。
by Joker (2006-06-24 11:02) 

YagiYuki

>恩師フッサールの正当性を擁護していたかと思うのです。

また後で確認してみたいと思います。

>「ペーパーナイフの思い出」

私、知識についてはかなり欠けておりますので、?です。

>フッサールでは、カント的な「物自体」への言及って、ありましたか?

物自体という書き方はしていないのですが、「実在論」については明確に批判しています。
フッサールはあまり「一般的な哲学批評」のスタンスでは書かず、「研究者」として自分の書き方を貫いている(入門書をわりと書いているように、別にわかりにくく書こうとはしていないのですが)ので、なかなか理解が困難です。本の最後に重要なことを書いたりしているのですが、ここまで辿り着く前に人は沈みがちです。

「形相的還元」の概念についても、「論理学研究」「イデーンⅠ」「経験と判断」を通してそこを貫く意味を読みとらないと今ひとつ理解できなかったりします。
by YagiYuki (2006-06-24 18:14) 

YagiYuki

「存在と時間」の第2節をもう一度見てみました。
ただ私の考えについては、あまり変化はありません。

この問題については、異論は仕方がなく、いずれ、もう少しクリアに書いてみたいと思います。フッサールとしては、現象学的還元の底が抜ける考えとして承認できないと思います。

ここでは「論理」「本質論」ということが絡まってきます。
by YagiYuki (2006-06-27 19:44) 

Joker

「だが、あえて以上のようなこと(存在の意味を問いたずねる問い)を企てるのは、一つの明白な循環のうちに落ち込むことではなかろうか。まず存在者をその存在において規定せざるをえず、次いでこのことに基づいて存在に対する問いを新たに設定しようとすることは、循環に陥ること以外の何ものであろうか。存在に対する問いを仕上げるためには、この問いに対する答えがまずもってもたらすはずのものが、すでに「前提されている」のではなかろうか。このような「循環論証」に基づく論証は、原理研究の圏内ではいつでも容易に指摘されうるものであるのが、それを指摘して形式的にあれこれ異議を唱えてみても、そうした異議は、根本的探求(現象学的な探求のこと)が具体的に辿る方途が考量される際には、常に不毛である。事象を了解するためにはそれらの異議は何ごとも解決しないのであって、むしろ根本的探求の分野のうちへと踏み込むこと(肉薄:Vordringen)を妨げるだけである。
しかし、現事実的には、前述の問題設定のうちには、そもそもいかなる循環もないのだ。・・・・」(『存在と時間』/第二節:存在に対する問いの形式的構造)

ハイデガーとしての文脈のかぎりでは、全く問題ありません。間違ったことを言ってもいません。「現象学的還元の底が抜ける」とは何を言うのか、待ちたいたいと思います。

この当時のフッサールとハイデガーの師弟関係は良好で、フッサールもハイデガーをもって「最も信頼できる弟子」として任じ、ブリタニカ共同執筆の要請はここから起こって来たのではなかったでしょうか/ブリタニカ第二草稿での「意識への還帰と現象学の理念」(ハイデガー)のいったいどこに、フッサールはカチンと来たのでしょうか?・・・どうも「現象学」をもっぱら方法論として扱うハイデガーと、そういう扱い方に対してフッサールとしては断じて承認できなかった・・・というところが、≪ここでは「論理」「本質論」ということが絡まってきます≫ということなのでしたら、それは理解できます。

共同執筆にもいろいろあって、ジル・ドゥルーズとフェリクス・ガタリのように「二人」じゃないとダメな場合もあれば、『プリンキピア・マテマティカ』でのラッセルとホワイトヘッドのように、お互いに精神的ダメージがピークにまで達し、相手に対して殺意すら抱くに至るケースもあったりしますね(余談)。この二組は、凸凹コンビっぽいですが、互いに折り重なって「一つのこと」を成し遂げることがあります。師弟関係では、難しいのですね。

これもついでですが・・・

「・・・語の意味というものは、対象の持つ物的な諸特性に依存してはいない。そうではなくて、その対象が人間的経験の中に出現する姿、たとえば、<あられ>という語の意味なら、空で生まれ降って来たこの固く、脆く、溶けやすい粒々の前での私の驚きのことなのだ。それは、非人間的なものの人間的なものへのひとつの出現(出会い)である・・・してみると、言語は、対象を前にした私という意識を、その出現を前にした私という意識の沈黙を前提しており、これが語る世界を包み込み、ここからまず始めに語が形状と意味とを受け取るわけである・・・語られたコギト)、すなわち言表と本質的真理とに転換されたコギトの彼方に、沈黙のコギト、つまりは<私による私の>体験というものがある」(メルロー=ポンティ『知覚の現象学』:第三部:コギト)

こういうのも或る意味文学的ですが、抵抗ありますか?
by Joker (2006-06-27 22:16) 

YagiYuki

>いったいどこに、フッサールはカチンと来たのでしょうか?

ブリタニカ草稿でハイデガーが執筆した部分は、やはり「存在と時間」と同様に現象学を存在論的に転換した書き方です。

「現存在の実存体制が…超越論的構成を可能にしている」(p165)
「人間の具体的な「ひとまとまりの全体性」が第一次的に人間の存在様式を規定している」(p166)
「構成するものそのものの存在様式について問うことは、回避できません」(p166)

これらや「眼前存在者=手前存在者」(p135)という考え方はフッサールは納得できないと思われます。むしろ、ハイデガーとフッサールお互いに承認できず、(統一したロジックでまとめるには)最終稿がこうなったのも仕方がないような気がします。

この問題については、デカルト的懐疑~(独我論的形態)~超越論的還元という流れに対して「ハイデガー存在論」がもつ意味について、いずれ、もう一度クリアになるように書いてみたいと思います。(考えが固まっている訳ではないのですが)

ポンティは今読んでいる途中ですが、フッサール、ハイデガー以上に頁が進みません。ハイデガーより随分現象学理解に遠いような。

文章の難しさというよりも、著者が論理的、哲学的に理解して書いているかという度合いに応じて、私には読みにくさが変化していきます。だから私が変とも言えると思いますが頁が遙かに進むのはフッサールです。
by YagiYuki (2006-06-28 07:58) 

Joker

Vorhandensein:手前存在(事物的存在)といったハイデガー独特の造語の問題にとどまらず、これでは自分の考案・創始した「現象学」がハイデガーによって≪書き換えられてしまう≫という危機感・心痛みたなものが、フッサールの側にあったかも知れないですね。

昨年の6月、トートナウにあるハイデガー・ヒュッテ(山小屋)を訪れようと思い立ち、フライブルクを訪れたおりに、フッサールの住んだというロレットシュトラッセに面した家を見て来ました。木陰のできる庭付きの一個建てのようなハイデガーの家とくらべ、4階まであるわりと大きな屋敷でした。堅固で落ちついたたたずまい。反対にハイデガーの家は、木の枝が風に揺れ、窓ガラスを叩くような感じでした。・・・ふ~む、そうかもなとか。
by Joker (2006-06-28 12:53) 

YagiYuki

哲学を語ることは難しいですね。
ある哲学の承認は、他の哲学の否認が多かれ少なかれ伴ってしまいます。
数学など他の学問だと、ある分野は他の分野の否認まではしないでしょうから。
それだけ根源追求の学なので仕方ないのかも知れません。
考えの違いが明確になる所までの模索が必要ということでしょうか。
by YagiYuki (2006-06-28 15:12) 

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