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ニーチェのニヒリズム [ニーチェ]

ニーチェは端的に語りにくい。
熱心な読者ではないので限定的に書いてみる。

今更ながらニーチェを読んでいると、実に多くの人がニーチェの影響やニーチェを模倣しようとしていたのか思い知る。彼の言葉は、鋭い洞察も多々見られるが、問題となる部分もあり、一概に論じにくい。

観念的なものと実存的なもの、事実世界的なもの、文学的なものが混在して語られ、少し整理が必要である。

ニーチェの哲学的限界に解を求めるよりも、それを「本質的に解き放つ」ことに意味があるように思える。それにより彼の意図が汲みつくされるはずである。

「ニヒリズム」「永遠回帰」についてだけ考えてみる。

【ニヒリズム】

ニーチェと言えば、ニヒリズム。ペシミスティックな受動的ニヒリズムでなく、進んでそれを受け入れる能動的ニヒリズムを説いた。

しかし、ニーチェのニヒリズムというのは、生の究極的な目的が「ある」か「ない」か、という問いに収斂され、「ない」からニヒリズムをどう生き抜くか、という形になってしまっている。

我々は、持続的な事であれ、数分しかもたないようなささいな事であれ、ある「目的」をもつ。それは「自我構造-と相関的な-目的」という形での目的である。自我構造はある意味で絶対的に(不変という意味ではなく、中心的役割として)あり、目的は相対的である。その目的というのは、持続性もあるが、そのつど変化するものである。そしてその目的は達成されることも、されないこともある。「目的は相対的」なのに、その目的に究極的な「不変の意味」を求めると、それが「ある」か「ない」かという選択になってしまう。

目標や目的は変わるし、無目的になることも、ニヒリスティックな気分になることもある。不変的な「目的」の希求は「超越者」に進むか、「ニヒリズム、相対主義」に陥いるかどちらかになりやすい。

相対的なものでしかないのに「不変の究極目的」を求める哲学、宗教は問題であり、ニーチェはそこを突いた。しかし究極目的が「ある」という解答が誤りだから、「ない」究極目的の上でそれをどう耐え抜くか、という解答も二元論的で反動的にとどまる。この両論を聞いて、実感として違和感を感じる人も多いと思うが、それにはそれなりの理由があるのだ。

「対象的な意味」を追い求めても、それ自体が「そのつど性」を逃れない。それは習慣性をもち、ある期間で持続性をもつだけである。しかし、そのつど持続的に意味、目的を持つことは生のアプリオリであり、それを否定することは単なる倒錯である。

つまり、「対象的な意味」は相対的であるが、「意味を生み出す作用、働き」はアプリオリであり、それは生の条件である。「意味の内容」は相対化できても、「意味する」ことは相対化できない。

全てを相対化しようとしても、相対化しようとする意識の働き自身は相対化できない。意識の働き自身を相対化しようとしても、新たに相対化しようとする意識の働きが生まれるだけである。もしそれを徹底化するなら死(または睡眠、意識喪失、意識破壊)しかなく、それは根本的に倒錯している。

目的論を真に目指すなら、フッサールのように「自我構造」自身に内在する傾向の洞察としての目的論でなければならない。しかしそれは難問であり、容易なことではない。

ニーチェも「無目的な生成」「力」ということで、生に内在する志向を捉えようとしていたが、道半ばである。


人は「人生は無意味」と言ったりする。しかし「人生は無意味」という言葉が「意味」である。
目的を否定する人は「目的を否定すること」を目的としている。

ニヒリズムは克服するものではない。
ニヒリズムは超越論的な構造の理解不足である。


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コメント 5

てぃー

>確かに、相対的なものでしかないのに「不変の究極目的」を求める哲学、宗教は大いに問題であり、

たしかに、人間とはさまざまな方向に関心(目的)を持つベクトルの総体のようなものだと思います。ただ、西田幾多郎やキェルケゴールがいうのは、そのようにかりそめな、有限的な目的しか持つことができない人間の統一の部分(YagiYukiさんのいう「相対化できない」ところ)を「神」とか「絶対者」とか「永遠者」と言っていて、相対化できないところを積極的に規定するようです。それが宗教哲学の基本になっています。

>目的論を真に目指すなら、フッサールのように「自我構造」自身に内在する傾向としての目的論でなければならない。しかしそれは難問であり、容易なことではない。

フッサールはよく知りませんが、おそらく宗教哲学とはものの見方が違うのでしょう。だからこれらの議論はかみ合わないかもしれません。結局いいたいのは、この論理展開には別の道筋もあるということです。
by てぃー (2006-05-22 01:40) 

YagiYuki

>「神」とか「絶対者」とか「永遠者」と言っていて、相対化できないところを積極的に規定する

うまく噛み合うかどうかですが、「神」「絶対者」「永遠者」が「対象的な目的、意味」でしかないなら、ニーチェの言うように相対化されてしまうでしょう。「考えを異にする宗教哲学」からは「君の神、絶対者、永遠者は間違っている」と常に反発があるでしょう。

では、「対象的な目的、意味」ではなく、「相対化できないところを規定する」「誰にも適用できる」ものであればいいのですが、そのようになっているか少々疑問です。「自我構造の本質洞察」を「物語なし」にただただ洞察する、間主観的にただただ洞察する、これは今のところ(完全かどうかは別問題として)現象学が優位にあると思います。

「神(超越者)」の原理ではなく、「神(超越者)を思考する思考の働き」の原理を洞察すると言えばいいでしょうか。わかりにくいですか?前者は「対象的なもの」です。後者は「対象的なものを生み出す自我の働き」です。

西田幾多郎やキルケゴールは残念ながらよく知りませんので、いずれ読んでみたいと思います。
by YagiYuki (2006-05-22 11:58) 

Joker

>つまり、「対象的な意味」は相対的であるが、「意味を生み出す作用、働き」はアプリオリであり、それは生の条件である。「意味の内容」は相対化できても、「意味する」ことは相対化できない。

その通りですね。で、ニーチェの「生成」+「永劫回帰」の全体がは、フッサールと違わない気がします。繰り返し繰り返し生成していく生の運動は、ニーチェも「相対化されはしない」と言っているようにも思うのですが・・・

キルケゴールの「死に至る病」は、ニヒリズムという形態を取らないで、「失意・絶望」という形態を持つ感じです。それが「死に至る病」であるのは、ニヒリズムと同様かなと思います。「・・・であるなら、人生とは絶望以外の何ものであるのか?/しかし、そうなってはいないのだ」(『死に至る病』だったかな?)・・・「そうなってはいない」=「相対化されないものが存在する」というわけで、フッサールとキルケゴールは、「或る予感/アプリオリな了解」を共通して持っているような印象もあります。

ただ、キルケゴールの場合、「神の前にして立つ単独者」→「我と汝」(ブーバー)みたいな二者構造を持ちます。フッサール現象学では、こうした二者構造は消えて、超越論的な意識の志向的構造へと変容してしまっているのかどうか?・・・

「孤独に街をさまようことが哲学者の本質である」(ニーチェ)/ヘラクレイトスをイメージしての発言だと記憶しますが・・・この哲学者も、何かを求めながら街をさまよっているように見えますね。相対化されざるものの境域でしょうか?
by Joker (2006-06-26 12:55) 

Joker

[追記]
ニーチェの『ツァラトゥストラ』とフッサールの『イデーン』は、よく似ていると思います。『イデーン』のフッサールは、現象学的還元の≪覚醒者≫として、この「光」の中から一切を語り返すのですから、ツァラトゥストラの「一切価値の大転倒」そのものです。読まされる側は、その「光」について知らないので、「たまったもんじゃない!」って叫びたくなると思うのです/これがフッサール現象学の「難解さ」の謎解きです。

そちらが・・・実際に読まれた感想は、いかがでしたか?
by Joker (2006-06-26 18:30) 

YagiYuki

>繰り返し繰り返し生成していく生の運動は、ニーチェも「相対化されはしない」と言っているようにも思うのですが・・・

これはそうですね。
ニーチェとフッサールは近い所で触れ合っていると思います。
ただ「理性」「論理」ということに対しては、両者で差があるように思います。

キルケゴールについては、まだ2ページくらいしか読んでいないので・・・
ただ文学的な書き方でちょっと苦手です。

>現象学的還元の≪覚醒者≫として、この「光」の中から一切を語り返すのですから、ツァラトゥストラの「一切価値の大転倒」そのものです。

なるほど。
そう言われてみれば、そうですね。
by YagiYuki (2006-06-26 21:04) 

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