ブリタニカ草稿(最終稿)第7節 [読解シリーズ]
【超越論的問題】
○超越論的問題というのは、世界の全てを問うものであり、問題を普遍的(理論的)な問題として転換する
○自然的態度では、世界はいつもあらかじめ与えられているものとして、実践的、理論的な活動の場となっている
○しかし、超越論的に問うとき、世界は、この意識の中だけでの「唯一の」世界となる
○世界が我々にとってもつ意味とは、生の中で主観的に形成される意味である
○我々の中ではいつも存在妥当(存在の調和的な確信)が遂行され、経験や理論は、どんなものであれ、我々を生き生きと習慣的に動機づける
○このことは「それ自身で存在している」と思われている世界でも同じことであり、世界の規定は我々の中で遂行される
○しかし世界が、意識の中での「唯一の」世界としてのみ現れるなら、世界の存在様式の全ては不可解で疑わしさをもつようにみえる
○認識されることのないまま曖昧に沈んでいる多様な意識において、世界が「それ自身で存在するとして現れる」「単に思念されたものではなく、調和的な経験として現れる」のはいかにしてなのか?
世界は、この意識の中で「現れるもの」でしかない。しかし、それが「自体的にある世界」「コロコロ変わることはない調和的な世界」として、我々に現れているのは何故なのか?
○この問題は理念的な世界(数や真理)にも移される
○だが、こうした不可解さが特に目立つのは自分の存在である
○我々の意識の中で、実在的な世界は意味と妥当をもつ
○しかし、我々自身も世界に属している
○我々が世界の中に存在するなら、再び意識に戻されることになる
○この意識の中でのみ、この意味が形成されるのなら、これを解明する以外に道はない
ここで言われているのは、次のことである。
(1) 「私の意識」により「世界」が構成される。
(2) しかし、「世界」の中に「私の意識を含んだ私自身」が属する。
こうなると、「意識」→「世界」と「世界」→「意識」となり、この問題は循環する。
これを解決するには、やはり意識の中でこの意味が形成されるので、それを解明しよう、ということである。
○世界は意識相対的なものである
○それは、現実の世界だけでなく、形相(本質)的な必然性として、どんな世界についても言える
○空想により今この世界を変更してみると、環境世界にいる私自身も一緒に変更されることになる
○変更の度に私は可能な主観性として変化するのであり、環境世界は可能的な経験の世界、理論的明証の世界、実践的生の世界として変更される
○こうした変更は、理念的な世界に手をつないでおくものであり、それは、世界を変更しても本質は不変だからである
○主観が変化の可能性をもつということは、認識は事実(現実)的な主観性だけに結びついているわけではない、ということが示されている
○問題を形相(本質)的に把握する時、意識研究も、形相(本質)的な研究に変化する
今、我々は目の前にある世界を経験している。しかし異なる世界経験を想像しても、我々の認識というのは同一の構造をもつ部分がある。この「現実世界(事実世界)」だけでなく、想像し変更した「可能的世界」を考えることにより、それでも不変の「世界に対する認識構造」を研究することは、自我構造の本質(理論、普遍)的な研究となる。
こうした形相的還元(本質論への移行)により、普遍(理論)的な考察が可能となる。
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