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不完全性定理と直観主義 (1/4) [数学系]

ゲーデルの不完全性定理は、関係本を読んでみてもその解釈については様々である。

「数学」的側面はいいとしても、問題は「哲学」的側面である。
(この問題は数学面だけで理解することは難しく、哲学問題と平行する)

最も同意できたのは、直観主義者ブラウワーの次の言葉である。

「不完全なのは当たり前で、つまらない」

※ 問題の性質により、内容や煩雑さから、ある段階の理解を前提にする

§ 経緯

不完全性定理は次のような経緯を辿っている。

発端は、ブラウワーの直観主義とヒルベルトの形式主義の数学の基礎づけ論争である。

ブラウワーはヒルベルトに対し、形式主義の「無矛盾性の証明など不可能である」と論文「形式主義に関する直観主義的考察(1927)」で警告する。

「形式主義数学をその無矛盾性の証明によって(内容的に)正当化することは、悪循環を含む」

ゲーデルはその「形式主義的な無矛盾性の証明が不可能である」ことを証明しようと試み、成功する(1931)。これはブラウワーの論文や講演などをヒントにしたようである。(ブラウワーの考えに全く同意したわけではないようだが)

それに対する当時の反応として次のようなものがある。

「ゲーデルの証明は、数学的厳密性の最も厳格な基準である直観主義的規範を満たすものであった」

「数学的主題は、その経験的源泉から遠く離れたり、たくさんの抽象的交配を経た後には、堕落してしまいかねない危険に陥ってしまう」
(フォン・ノイマン)

形式主義派であるノイマンがそのように述べている。

ブラウワーにとっては、不完全性定理の結論は以前から明らかで、元々主張してきたことが数学的に証明されただけであり、「そんなにも多くのことがそれについて言われているのに驚き」を表明する。

「数学は、ブラウワーと共に最高の直観的明瞭性を獲得する」(ヘルマン・ワイル)

しかし、ワイルは同文で懸念する。

「より高いより一般的な理論へ進む場合、古典的論理学の簡単な原則が適用できないことが、結局、ほとんど耐え難い重苦しさになってしまうことは否定できない」

基礎づけ論争としては、(形式主義は維持できなくなり)直観主義の側が優位となった。それは形式主義派も認めざるを得ない。

しかし、もし直観主義を厳格に適用するなら数学が失うものも大きい。

本当にそれでいいのだろうか?

そういう懸念がワイルなどにあり、ゲーデルの工夫やそれ以降の考察にも繋がる。

不完全性定理自体はそう問題ではないが、直観主義の数学への全面的適用は問題であり、話はここから複雑になる。「直観主義で失われると考えられる部分を救うこと」に対する模索である。

「このような過激な帰結を免れる方法はないものであろうか?」(ワイル)

§ 不完全性定理

(数学面は別書に譲るとして)不完全性定理とは何か?

[第一不完全性定理]

自然数論の公理を含むいかなる公理系も、それが無矛盾ならば形式的に不完全である

[第二不完全性定理]

自然数論の公理を含むいかなる公理系も、公理系が無矛盾ならば、公理系の中だけではその無矛盾性を証明できない

※ これらは述語論理(高階を含む)に基づく

公理体系(形式体系)上の命題は無矛盾でなければならない。

公理からの論理的推論により命題「a」が証明されるならば、「¬a」(aの否定)が証明されてはならない。

つまり、公理体系上の命題において「a かつ ¬a」というような排中律違反の矛盾命題が現れてはいけない。

しかし何故、現れてはいけないのだろうか?

そもそも直観主義において「排中律」は無条件に自明なものではないとして拒否される。

従って、「排中律」を前提とした「無矛盾性」というのは「形式主義的-無矛盾性」である。

「無矛盾」でなければ「数学的矛盾」であるというイメージを与えかねないので、「無矛盾性の証明」という言葉は「形式主義的-無矛盾性の証明」と読み替えないといけない。それはヒルベルトの目標であったが、数学の基礎づけ上の一つの立場である。

「形式主義数学の無矛盾性の証明によって、その(内容的)正当化をすることは循環論法を包含してしまう。何故なら、この正当化は「命題の無矛盾性から命題の正しさが得られる」という命題の(内容的)正しさに依存しているからである」(ブラウワー)

つまり、「排中律」を前提に、無矛盾性(公理体系上の命題の排中律の成立)を導いても、それは循環論法(排中律からの排中律の証明)である。その前に、排中律と共に公理群自身が「いかに成り立つか」の説明、証明を行わないといけない。基礎づけは、前提を排したものである。

公理体系上において「矛盾命題」が現れることが問題であるならば、何故それが問題なのかの証明が先に必要である。

というのは、個々の命題の言語規則、記号規則では対象とする数学的事態を「一義的に捉えることはできない」からである。従って、数学的矛盾を全て捉えることもできない。

形式主義の問題点は「命題(文)」での「排中律」を想定したからであり、「対象とする数学的事態」が「成立(存在)するか、しないか」という対象存在志向が希薄である。数学的事態が成立するか否かは、(数学分野の性質にもよるが)命題形式的に一義的には捉えられない。

「全ての数学の形式系に付きまとう不完全性の真の理由は、どんな形式系においてもたかだか可算個の型しかないのに引き替え、高階の型の構成は常に超限的に継続できるからである」(ゲーデル)

このことの意味について以降で説明する。


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