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不完全性定理と直観主義 (3/4) [数学系]

§ 例1

例えば、 5 という数がある。

特に何も明記されていなければ、暗黙の定義で10進数である。

2進数では 101 であり、漢字では 五 、英語では five である。

これらは、全て同じ数学的理念対象を指している。

それを [5] と表してみる。

( [ ] は数学的理念対象、数学的事態を指す。特に記号の説明がなければ暗黙のものを指すとする。)

同じ数学的理念対象 [5] であるから、記述表記(記号)は相互に変換(翻訳)可能であり、何が誤りで何が正しい変換か理解可能である。

5 + 10 = 15

暗黙の算術記号定義で、+ は「加法」を示し = は「左右等しい」ことを示す。

五に十を足すと十五になる

と書いても、「数学的」には同じ意味である。

つまり、 [5] [+] [10] [=] [15] という対象的理念の連続であり、[5 + 10 = 15] という数学的事態であることを意味している。

5 + 10 = 15 というのは表示形式であり、「一義的」に数学的事態も指示している。

5 や + の意味を知らない人は、表示形式を見ても、数学的事態は理解できない。

勿論 + を別の意味として定義すれば、別の答えとなる。意味が定義できなければ、解答不能である。

「 + 」は「加法」と説明されるが、これはあまりよい説明ではない。同じ事を別の表現で表しただけだからである。「 + 」や「加法」が何を意味するのかというよりも、数学的操作として何を行うのか、人は知っているということである。

「 + 」は当たり前すぎてわかりにくいが、「 lim 」や「 log 」や「 Σ 」といった記号を初めて見た場合、それを理解することがどういうことか考えればいい。

人は、それらの記号を「言語意味」として理解をしているのではなく、「数学的操作」として「何を行うのか」わかって初めて「理解」となる。

コンピュータで例えると、コンピュータ上のデータは全て 2 進数 (1 bit) の on, off でメモリやハードディスク上に格納されている。処理される単位は 1 byte (= 8 bit)なので、

[5] というのは、 1 byte では、00000101 と格納されている。

これを、10進数で表示すると 5 であり、漢字では 五 、英語では five となる。

[ ] はコンピュータ上では内部データ、機械的ロジックの部分に当たる、と考えればいい。

「1+1=2は正しいか?」という問いは、あまり意味はない。

暗黙(通常の10進数での算数、数論)の定義上では正しい、というだけであり、定義や意味する単位を変えれば、正しいとはいえない(正しい場合もある)、というだけである。

自然数が1の加算で定義されるなら、「1+1=2」はその範囲内であり、自然数の加算や乗算は全て自然数の定義内での演繹である。

数学的命題の正当性は、対象とする数学的事態の合理性で判断しているということである。

上の例では、「記号」と「数学的事態」は1:1に対応している。つまり「記号」を見れば「数学的事態」は確定、認識できる。しかし、他の命題を参照している場合などは、1命題の「記号」を見ても、必ずしも「数学的事態」は確定されない。

他の命題を参照している場合でも、悪循環とならないような場合には「数学的事態」は確定できる。しかし、事態に矛盾があるかどうかは個々の命題だけでは判断できない。

§ 例2

幾何学のある証明問題があるとする。

それは、文章で書かれているとしても、実際に解くときには、幾何図形を頭で描いたり、ノートに書きながらそれを解いていく。幾何図形に対する直観的なもの、推理的なものなしにそれを解くことは難しい。

問題の意味を理解するために言語が用いられていたとしても、実際に幾何図形を描くことができれば、後は、言語や記号を特に用いなくても、幾何図形の操作だけで(頭の中だけでも)解答できる場合は多い。証明するときには、後で、言語や記号などの説明を用いるとしてもである。

逆に言うと、幾何学の問題は「幾何学的直観」がなければ、解答まで導くことは極めて難しいのであり、よく言われるように、ヒルベルトの「幾何学基礎論」も「直観」なしに理解することはできない。

直観的推理なしの幾何学というのは人間には理解しがたく、どこに向かっているかよくわからないはずである。

数学する人が目的としているのは、対象とする数学的事態、幾何学的事態の合理性、合目的性であり、それは構文的、形式的なものだけの合理性ではない。

「数学的推論に随伴する言語の規則性を、数学的推論そのものに帰するべきではない」

「数学的言語、特に論理は、それ自体では、決して数学的事態を演繹することはできない」
(ブラウワー)

テレビ番組で、図形を操作するような幾何学の問題を公理から導いている人はいない。幾何学的事態を理解できる範囲で言葉の意味を知っていれば十分であり、公理を特に知らなかったり、あやふやでも解答を導くことはできる。

解答への道は、ほとんど直観的な推理で行われているのであり、結論が出た後での「説明」もアバウトでバラバラなこともある。しかし、それによって解答の正確さが損なわれるわけではない。構文的、手続き的な説明の正しさが問題になっているのではなく、目的への推論の正しさが問題になっているのである。

§ 例3

「ここに携帯電話がある」という言葉について考える。

正面を向いていれば「真」の場合でも、横を向けば「真」とは言いにくくなり、後ろを向けば「偽」であり、隣の部屋へ行けば「偽」である。

つまり、記号や言語規則からの意味「だけ」で人は「言葉」の判断をしている訳ではない。

「ここ」という言葉は直観的にある範囲を指示し、その周囲は曖昧である。「ここ」に適合する範囲で「携帯電話」があると「充実的な合致」意識が与えられる。

現実においては、「言語」を通じて人は「ある事態の思念」をしているのであり、単なる言語意味だけでなく、何らかの「意識の働き、知覚、一般意味と対象との関係、意味の充実的な合致など」を関係併せて(総合的)判断の根拠としている。

§ 形式主義と直観主義

「数学では特に、私たちが考察するのは、採用した把握の仕方に従って、その形が直観的に明晰で認知可能な、具体的な記号それ自身である」(ヒルベルト)

形式主義では、「記号」という「伝達形式的」「手続き的」「規則的」な「目に付くもの」を中心に数学を考えている。

しかし、それは数学の一側面である。数学で中心となるのは「対象的」「事態的」なものであり、それに向けての推論である。

「直観主義の数学が、時間の働きの知覚にその起源をもつような、心の本質的に無言語的な活動であることを認識すること」(ブラウワー)

「直観主義数学者にとって、数学は人間精神の産物である。彼は日常言語も形式主義的言語も伝達のためだけに用いる。すなわち彼の数学思想を他人あるいは自分に追思考させるためである」(ハイティング)

幾何学などを考えればわかるように、数学的事態は無言語的な推論によっても成立する。

「数学的公理を規約により真とすることで、数学的直観や経験的帰納を除去することは不可能である」(ゲーデル)

公理を独立的に整備することも数学の一側面として重要である。ただ、形式主義の無矛盾性(命題、記号列による排中律が成立する体系)というのは、公理体系内で数学を演繹化、機械化する志向であるが、それは数学を逆方向に見ている。形式的無矛盾性を求めると、無矛盾になるようにしか公理を設定できない。

公理により、全推論パターンの排中律を成立させ矛盾命題を取り除かなくても、公理からの推論を矛盾のないように構築していけば問題はないのである。

公理と公理からの推論命題が矛盾なく「対象存在」を一義的に指示するような数学分野であれば、無矛盾性は成り立つかも知れない。(ここには「事態の無矛盾性」と「命題形式の無矛盾性」という二つの一致関係がある)

しかし、「メタ目線」で形式的無矛盾な公理枠、排中律体系を作ることが「どういう意味で」有用なのか考えなければならない。

「数学上の発見とは、既に知られた数学的事物を用いて新しい組み合わせを作ることではない。作りえる組み合わせは限りなく、その大多数は全然興味のないものだろう。発見するということは、有用な組み合わせをつくることにある。発見とは識別であり選択である」(ポアンカレ)

プログラミングの例で言うと、プログラム言語体系の整備は必然であるが、それは目的とする実行プログラムを豊かにするための整備である。言語体系からの自動化システムが目的とされているわけではない。

チェスや将棋において「人間」対「コンピュータ」の勝負がよく行われる。しかし、本当は「人間」対「機械をもった人間」であり、コンピュータは全て人間が作り、プログラムは人間が改良に改良を重ねたものである。

プログラムは「人間のプログラミング」+「機械的演繹」によって実行される。プログラミングは完全な自動化はできない。自動(学習)化しても自動(学習)化するプログラムが更に必要になる。コンピュータも人間の推論に支えられている。

「駒の動きを知ればチェスの指し方がわかるわけではない。論理によって与えられた材料を組み合わせる仕方はいくつもあって、我々はその中からあるものを選び出さなければならない。真の数学者は、この選択を巧みにやってのけるが、これはある正確な本能によって、何かは知らぬが更に奥深く隠れているある数学についてのおぼろげな知覚によって、導かれているがゆえである。この隠れた数学こそ築きあげられる建物に価値を与える」(ポアンカレ)


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