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不完全性定理と直観主義 (4/4) [数学系]

§ 超越論的認識論

直観主義系統の人のベースには、超越論的(観念論的、構成的)な認識論がある。

この「哲学性」が受け入れがたさの一因となり、認識論は記号のようにわかりやすく目に見える「対象領域」ではないので、理解が得られにくい。

自分の「認識の働き」を認識するということは、一見何を行っているのかよくわからない。

しかし、人は、例えば「記憶」「想像」「知覚(視覚、聴覚、触覚など)」を分類している。それは「目に見える」ものではないが、洞察している。

「意識の働きの本質」など捉えられるわけがない、という人がいれば「記憶では~・・・」ということも言えないはずである。それは意識の働きを本質区別している。触覚と聴覚を区別できない人はいなく、深い部分は本質洞察力、判断力、分析力の問題である。

「本当は誰も、「理念」や「本質」を見ているのであり、思考の際にはそれらのものを操作し、本質判断を遂行している。それでいて、自分たちの認識論的な立場から、解釈上除去しているだけなのである」(フッサール)

「感情…」「心理…」「経験…」「感性…」「芸術…」これらの言葉も本質判断であり、理性的判断である。しかし、(どちらかというような)二元論的思考にとらわれていると、解釈上で理性的判断していることが除去されることが多い。理性的判断というのはそれらを否定しているわけではない。

ある言明を正当であると主張する場合、人はその判断根拠をもっている。言葉に「根拠などない」という人も、「根拠などない」という言葉に対する確信は持っている。もし、その確信もなければ「自らの言明はデタラメ」あるいは「いい加減」と自分で言っていることになる。(日常生活ではなく学的な意味である)

アプリオリな本質論とは、「いかなる」思想の人でも実はそれに従っている、ということである。誰かどこかにあるのでなく、それぞれの中にあり、重ねるのでなく、知識一切捨てても残りから(洞察として)見えるものである。本当は何もわかってないということや愚かさも見えるのである。

個々人はある時間、地域、個の実存として生き、それぞれ(60億人いれば60億の)偶然、固有、ある限定された問題を抱える。そこには様々な考えが交錯するし、個々人がどのように生きるかというのは固有の問題が大きく関係する。

本質論というのは普遍として言える部分だけであり、それ以外を排除している訳でなく、単に(根本哲理は)それでないと「誰かに都合の良い、思いこみの、ある事例を捉えた論」にしかならなく、論理として矛盾するというだけである。(誤解されやすい言葉であるが)希望も絶望もそもそも関係ない。

超越論的な認識論に深い理解を示すのは「数学者」か「数学系哲学者」の人である。しかし「数学界」でも「観念論派(構成派)」と「実在論派」に分かれ、前者は少数派である。そして科学・技術の先進化、大規模化、専門化と共に哲学から離れていく。

§ 構成的数学

直観主義系統の人でも考えは多少異なる。直観主義を含んだ大枠として構成主義、構成的数学がある。ポアンカレ、ワイルなどの可述主義などもこの範囲である。

構成主義派は、数学的対象を人の構成、直観により完全に与えられる限りのみ認める。

実在論派は、数学的対象を人の構成、直観から独立に存在すると考える。

ポアンカレの言うように、両者はほとんど分かり合えない。

非構成的な方法というのは「全体は見えている」「全体はある」と仮定して行われる。しかし、その全体の中で無限、無限悪循環があると、「一方でなければ、他方」という排中律の無条件な使用は問題を生む。「見えてない」ものを「見えた」とすると、「問い方により」問題が発生する。

つまり「全体」は内部に「無限」があると、無条件には「見える」と仮定してはいけない。

「見える」というのは「終わりが見える」ということであるが、無限というのは「終わりなく継続する」ことを意味し、「対象値の概念」ではなく「ある方向への継続を示す概念」である。無限は、「ステップの継続の無限」「時間的な無限」を仮定している。

(従って 「 ∞ + 1 = ? 」 「 ∞ - ∞ = ? 」 という問いは 「 ア + 1 = ? 」 と同様ナンセンスである)

構成的数学では、証明を行うときには、解の「存在」を保証し、解を求める手段を具体的に提示する。

構成的な確実な対象や推理だけを用いて結論を導くのでパラドックスは生じない。

もしパラドックスが現れるなら、その直観主義-構成主義は不備があると考えてよい。直観的明証から構成的に理念存在を確証していく構成的数学においてパラドックスとは無縁(なはず)である。

哲学的側面の中心はポアンカレとブラウワーであり、直観主義を具体的に明確に打ちだしたのはブラウワーである。

直観主義は人間的数学であると言われる。

構成的数学は構成的現象学と平行し、構成的数学世界は構成的現象世界と平行する。

§ 数学と哲学

普遍哲学はアプリオリなものの発見であるが、数学の多くの領域はアプリオリなものとは言えない。

アプリオリな領域は創造的なものではないが、数学はアイデアを合理的に積み重ねていくものであり、意識の構造を解明すれば全部見えるものでなく、拡張性のあるものである。

数学には厳密性が求められるが、それはどういう意味での「厳密性」か、ということが問題になる。ある意味で「思想、志向的」な問題であれば、幅があってもよいことになる。

数学は基礎づけ問題で悩まされていないのだから、基礎づけなどいらないのではないか?という疑問もあるが、これは微妙である。時代の多数決が正となり、悩んでいないだけかも知れない。

数学者は数学を「何でもあり」の拡張性をもつとは見なしていないはずである。そこには自由拡張は認めても、矛盾した拡張を認めないという「規制、合理則」が働いているはずである。

基礎づけはあくまでその「合理則」の明確化でしかなく、恐らくそれがないと人はいつまでもある「違和感」を抱き続ける。

矛盾拡張した数学は認められない。何故なら、矛盾拡張した数学を正当な論理で追求しても結局最後は矛盾しか導かれないからである。そして応用ができない。

矛盾追求は(頭が明晰なほど狂気を生み)苦しいものとなる。戻ってこれない場所へ行ってもなかなか気づかなく、(臨界を越えると体が破壊されはじめ)体の回復が絶望的になってもわからない。その果ては何もないが、それは果てにいかないとわからない。体は何かを告げるシステムになっているが、本当に納得しないと僅かな体力でも考え始める。

結論にパラドックスがある問題は、ほぼ前提に問題があると考えていい。既存の数学の常識においてパラドックスが発生した場合、その常識は疑わしい。

不完全性定理はパラドックスを示すものではない。不完全性定理が指摘するのは、形式主義的-無矛盾性という目標に対してであり、非構成的な方法の拡大解釈に対する警鐘である。

当然、不完全性定理で「数学、論理が死ぬ」なら、不完全性定理自身も「数学、論理」なので、不完全性定理自体が死ぬことになる。

記号規則を根拠とする試みというのは循環論になり、また同様に、言語規則を根拠とする試みも循環論になる。そして、必然的に相対主義~懐疑主義的になる。

§ その後の直観主義

以下は、様々な文章からの抜粋的なものである。

直観主義は直観主義論理としてハイティングにより形式的に体系化されている。

ゲーデルやその他の人により、算術での古典数学の標準的形式体系の各定理は、直観主義論理のハイティングの形式体系の定理へ翻訳された。つまり、古典論理は直観主義論理に組み込めることが証明された。

直観主義論理はBHK解釈(Brouwer, Heyting, Kolmogorov)として整備されたものが標準となっている。主に、ハイティングの流れにある。

ブラウワー直観主義と排中律排除の形式化に重きを置いたハイティング標準の直観主義論理では意図するものが異なっている。直観主義論理はブラウワーの哲学性が大きく削られ、数学的形式性が強調されている。しかし、それにより扱いやすいものになっている。

ブラウワー直観主義と直観主義論理(BHK解釈)の違いは、ブラウワーの直観主義数学が具体的にどのように行われ、それと直観主義論理で行った場合との違いを検討すると見えてくるのかも知れない。

それ以外にも様々な構成主義の立場、コンピュータ(計算機科学)系の立場などもあり、怪しいものもある。

直観主義は一つの理想主義であり、明瞭で強力なものであるが、それを数学全体に適用するとなると、様々な数学の改訂を要求する。

というのが常識的であるが、近年の研究ではそれはかなりの誤解であり、古典数学も成果を捨てる必要は全くなく、直観主義-構成主義はコンピュータ系を中心に見直されている。

コンピュータ系で直観主義が復活してきたのは偶然ではなく、数学的矛盾というものがいかに発生するのか厳密な具体的数学として示すのがコンピュータである。コンピュータは矛盾があれば動かないので、本来の数学的矛盾とは何かを教え、机上チェックから実行チェックに移す。

具体的数学により数学の基礎問題が露呈されることは、ポアンカレによって既に予言されている。それは必然の流れだからである。

例えば、コンピュータでの実数(計算)の扱いや無限の概念を考えるだけでも、多くの示唆が得られるはずである。コンピュータは数学の拡張過程を1から作り上げ、実装しないといけないので数学的原理とは何かについてよく教える。

「実装できない」=「矛盾」ではないが、「矛盾」があれば「実装できない」はずである。コンピュータ上の数学が正という意味では必ずしもない。

古典論理と直観主義論理は相互に変換可能なことはゲーデル~コンピュータ系により論証されている。「古典論理+直観主義論理」でいいなら、ワイルの懸念は払拭されることになるが・・・

ワイルの懸念が古典論理、古典数学の簡単な原則が適用できないというならば、矛盾がない場合、古典論理=直観主義論理(相互変換可能)なのでこの懸念は解消されることになる。

非構成的な方法(主に背理法)でも、矛盾となる場合と、矛盾とならない場合がある。古典数学では、矛盾ではないから特に明確化せずに非構成的な方法を使用してきた。しかし、パラドックスが発生するような分野が現れだしたときにその基礎が問われることになる。

直観主義は数学から矛盾、パラドックスを排除する方法を明確化した。しかし、非構成的な方法でも、矛盾がないならば、構成的な方法に変換可能なのであり(古典数学での)非構成的な方法も排除する必要はない。問題は、矛盾が発生する非構成的な方法である。

以上の考えが正当ならば、問題は「一部」となり、それを改善すると数学全体は頑強となるはずである。

古典論理、BHK解釈、カリー=ハワード同型対応、これらの関係を解きほぐすと、そのことがよくわかるのかも知れない。

そして、様々な領域において、事態は更に(必然的に)進行している(はずである)。主に理系の多数の先進分野は哲学と密接に関連するが、独自展開でありほとんど哲学の影響はみられない。

直観主義-構成主義も、ある程度完成された姿でないと理解は得られず、数学にとって利用できるものでないと「哲学的」ということで混乱を与えるのかもしれない。(恐らく、ブラウワー直観主義をもう少し拡げた形での構成的数学が基本になると思われる)

これらについては私の情報量、実理解の範疇を越え、恐らくこうだろうという話である。表面からはわからないことも多く、皮相的でなく本来具体的なものでなければいけない。

しかし、枝葉は多数あっても、根元から幹は見えているはずである。垣間見える情報は必然の流れを示唆しているからである。


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