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直観主義の理念 [数学系]

※ 数学関係については部分的に以前の認識になっていると考えて下さい(後ほど少しまとめる予定)

「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」 (クロネッカー)

以下は直観主義(構成的数学)の発想についてである。

直観主義は、数や対象存在を中心に考える 「純粋存在型数学」 である。

この概念より広いあるいは異なる枠での数学についてはここでは扱えなく、基本的な部分のみである。

数学は何から始まったのか、というのは紀元前の話で、現実的にどうだったかという史実的な話はさておき、数学哲学で問題となるのは論理的起源である。そのためには、なるべく先入観を取り除かないといけない。

目の前に 「何かあるもの」 が複数、多数あるとき、それは 「木」 でも 「石」 でも 「指」 でも何でもいいが、その並びに対応する形で 「単位となるある対象の集まり」 が考えられる。

その 「集まり」 を理念的に整備したものが 「自然数」 である。自然数は、繰り返しによって延長され、無限の値をもつことができるように整えられる。

「集まり」 は 「想像」 対象でも 「現実」 対象でもいいが、それに対して 「加える」 「減じる」 操作が経験的に成り立つ。これに対応するのが自然数の 「加法」 「減法」 である。

(算数の足し算、引き算、掛け算、割り算 = 数学の加法、減法、乗法、除法)

自然数の減法を考えると、 「 3 - 3 = ? 」 「 3 - 7 = ? 」 というように 「0」 と 「負数」 が現れ、そして「整数」が整備される。

従って、「はじめに自然数ありき」 又は 「はじめに整数ありき」 と考えられる。

最初のクロネッカーの言葉は象徴的なもので、人間が自然数や整数を作ったと考えることも可能であるし、逆も可能である。 「作る」 の意味によるのであり、自然数の加法、減法については、集まりに対する経験に平行し、人間でなくてもある程度の知性があればここから始まる。この言葉は起源を明かすものである。

標準が10進数になったのは、手の指の数と考えられる。10進数以外でもよいが、指で数えるときに違和感がある。古代には様々あるが10の倍数が多い。

数や加法などの理念操作に応じて 「5」 や 「+」 という記号の整備が行われる。アラビア数字と漢数字が違うように、記号はバラバラであるが、ロジックはどこの数学でも同一である。

「加法」 「減法」 を複数回同一操作を行うことにより 「乗法」 が現れ、「乗法」 の逆操作で 「除法」 が現れる。

整数の 「除法」 により 「分数」 「有理数」 が現れる。

10.gif = ? 」 「 00.gif = ? 」は「乗法」の形 ( 「 1 = ? × 0 」 「 0 = ? × 0 」 ) に直され値が確かめられるが、それは「除法」の根拠が「乗法」だからである。

有理数(分数)の小数表示により、有限小数と循環小数が現れる。

有理数で表すことのできないものが無理数である。

代数的無理数( ルート2.gif など)は 「 x-2.gif = 2 」 と X を有理数で表すことができないものがあるので、それから拡張される。

超越数(pai.gif など)も代数的無理数で表すことができないものとして拡張される。

複素数(虚数)は 「 x-2.gif = -1 」 などから拡張される。

[ [ [ [ [自然数] 整数] 有理数] 実数] 複素数]

このように根拠となる定義から定義の拡張は行われ整備される。

問題となりそうなのは、循環小数と代数的無理数と超越数であるが、1-3.gifルート2.gifpai.gif で考えてみると、

1-3.gifルート2.gif は存在する。 ルート2.gif は「 x-2.gif = 2 」として存在すると考えてもいいが、ルート2.gif でも特に問題はない。

pai.gif は微妙な問題を生むが、幾何学として存在するので、存在すると考えてよさそうである。

つまり、根拠となる存在が矛盾なく与えられている場合、それは存在する。問題は対象存在から遊離した 「記号化」 である。

上記の数を10進数で計算表示したときであるが、これは可能無限として、

1-3.gif ← 0.333333 ・・・

ルート2.gif ← 1.414213 ・・・

pai.gif ← 3.141592 ・・・

左の値に近づく(収束)と考えられる。しかし、10進数において正確には表示できない。

「超越数は存在しない」 という言い方があるが、何らかの存在根拠がある場合は存在すると考え、10進数では正確に表記できないと考えた方がよい。

pai.gif が存在しないなら、幾何学も存在が危うく、数学的理念として存在する。




幾何学の出現は 「現実空間」 との対応である。 「現実空間」 や 「現実平面」 での経験を理念的に整備したのが 「ユークリッド幾何学」 である。

「あるもの」 が移動する、又は「私」が移動・動作するという現実空間での経験や、私と対象との視覚や触覚での関係性は、幾何学の三次元空間によく適合する。生活上での狭い領域の空間は、三次元空間で考えても特に不都合はない。

しかし、現実空間を幾何学的三次元空間で理解するのは 「便宜上」 である。

現実空間というのは、「自己の目や身体」 を中心に拡がる空間である。いわば、真っ暗な部屋でサーチライトにより全体を把握するように、視覚(や触覚、聴覚)により人は全体空間を構成的把握し、また常に記憶として全体的構成空間をもつ。身体に近い中心の部分の方が質的、関係的に重要である。

しかし、幾何学上での三次元空間は、その空間内ではどこも均等であり、質は変わらない。

幾何学的空間はあくまで 「数学理念的」 なものであり、現実空間は 「感性的」 に(知覚を通じて)経験される空間である。これらは同じではなく 「形式が異なる」 が 「便宜的に」 用いると、「数学理念的」 なものと 「経験的(対象的)」 なものが調和適合し、現実的に(真ではないが)妥当である。

自然物はそうなっていないが、人工物が幾何学的なのは、幾何学を元にして人間の満足しうる精密さで作られているからである。

「経験は、どの幾何学が最も真であるかということを認識させはしないが、どれが最も便利であるかを認めさせる」(ポアンカレ)




数学体系を 「はじめから存在するもの」 として学習すると、「客観的な数学全体」 から 「各部分」 が存在するように思えるが、これは逆である。

「各定義」 は 「根拠となる定義、論理」 と矛盾しないように拡張されたものであり、拡張は 「新たな推理」 「直観」 をもとに行われる。

自然数、整数、有理数、実数、複素数というように数(の集合)は拡張されたのであり、最初に 「全体の数」 があるわけではない。拡張された定義は、いつでもその根拠に遡ることができ、遡った先の定義には「存在」が与えられている。

数学は構成的に 「新たな推理」 により進み、構成された部分の中で 「演繹」 的に成り立つのが客観的なものである。

コンピュータは人間の通った道しか通れない。同じルートを高速に走るだけである。そのルートは全て人間が作ったものである。そして1度 「完全に」 作られたルート(定理や関数やCPU)はいつでも検証なく再利用可能である。

作られたルートは客観的に 「既存ルート」 としてあるが、作られていないルートもありうるわけで、数学は(コンピュータと同様)全てが決まった全体としてあるのではない。

数学も構造物として存在し、その構造物以上については 「新たな推理」 を必要とし、それにより構造物は大きくなる。その新たなルートの創造の大きさが数学的価値である。

もし数学が単なる決定したルート体系、トートロジーであるならば、数学者は何を発見してきたのかわからない。元々あったものを発見しただけというならば、その 「元々あったもの」 というのは、超越者目線での仮定である。

「元々あったもの」 として見えているのは、既に発見され演繹的に成り立つ部分である。これから発見される部分については誰も知らない。




現代数学の 「実数の定義」 は、構成的拡張を経ずに、幾何空間(直線)と位相的に対応すると定義され、その根拠として 「実無限」 が使用される。

「実無限は存在しない。私にとってはこの問題には疑問の余地はない」(ポアンカレ)

無限とは 「限りが無い」 ことである。実無限は 「完結した」 無限である。「限り無く、完結」 「終わりなく、終わる」 これは無理がある。

反対の内容をもちながら 「どちらも真」 というアンチノミー(二律背反)から出発した場合、問題が次々と現れても不思議ではない。

「カントール集合論の特徴の一つは、漸次に複雑な建物を築きあげつつ一般的なものに進む構成的定義を与えることをせず、最高類より出発して、最近類と種的差異とによって定義する点にある」(ポアンカレ)

整数から構成的に拡張されたのが実数であったはずが、客観的な実数空間(無限集合)を最高類として定義し、その定義の配下に 「ある類」 と 「その他類」 を作る。

「定義」 は構成的に 「A」 が作られ、それと矛盾しないように 「B」 が拡張される。ここで 「A」 と 「B」 以外は不明であり、「全体」 のことはわからない。

客観的な方法は、「全体Z」 を先に作り、そして 「A」 と 「A以外」 という定義を作るような方法である。「A以外」 は存在が必ずしも与えられていない場合、これが問題のもとになる。

つまり、先に存在するかどうか不明な 「全体Z」 を考えるから、「否定側」(A以外)の整合をとらないといけなくなり、それにより 「排中律」(無矛盾)の成立を考えないといけなくなる。

「A」 + 「B」 = 「定義C」 であれば、「C」 の中に限り 「A」 と 「B」 の排中律は成り立つ。よって、この場合背理法を用いても問題ない。

しかし、「全体Z」 - 「A」 = 「A以外」 という場合、「A以外」 には一致するような定義(存在)を与えることが可能か不明である。このときに、「A」 と 「A以外」 の排中律が成り立つかは不明である。

実数空間は実数の最高類の全体としてあり、その配下に複素数以外の数が収まることになる。しかし、その数は構成的な手続きを経ていないものもあり、「存在」 が疑わしい。

「全体Z」 の配下に 「A」 「B」 「C」 「D」 の数があるとすると、「全体Z」 から定義した場合、「A」 でも 「B」 でも 「C」 でもないものは、全て 「D」 という設定になる。ここで 「D」 は必ずしも存在するとはいえず、構成的に与えることができる 「D」 以外の 「D」 は仮定である。

例えば、「D」 を超越数であるとすると、「A」 「B」 「C」 以外の実数は全て超越数ということになってしまう。ここで、「A&B&C」 と 「超越数」 の排中律は成り立っているのか不明である。

実数空間はどれだけ実数で埋めても 「埋め終わらない」。本来の数なら 「どこまでも埋められる」 & 「どこまでも埋め終わらない」 のはずであるが、「実無限」 の実数空間が仮定され、そこから逆算が発生する。

こうなると 「実数」 というのは通常の 「数存在」 の性質とは異なるものになる。「数存在ではないが、全体が量的なものとしてある」 という不思議なものになる。

つまり、0次元の 「点」 として存在するものを、1次元の 「線」 に昇華させることになるのであり、ここで実無限のマジックが必要になる。

いずれにせよ、この「実数」の定義は、他の数の定義と離れた定義の方法である。

「数存在(0次元)」 と 「量存在(1次元)」 を結びつける必要はあるのか、あるとすればそれは 「実無限」 でなければいけないのか、・・・

「定義は、矛盾を含まず、また先に承認してある真理とも矛盾しないことを証明しえなければ、純粋論理的見地からは正当なものと認められない」(ポアンカレ)




「純粋存在型数学」 から離れた数学については全体が見えないといけないのでここでは扱えない。

ただ、直観主義は数学の基礎づけに関する問題を解消し、数学の正当性の根拠を提示していると思われる。

「矛盾のない数学的存在」 に 「数学の正当性の根拠」 はあり、「記号」 や 「言語概念」 に対応する 「存在論理がない」 あるいは 「存在が状態変化する」 ことがパラドックスを生む。

プログラムに新たな文法(命令記号)を作っても、それに対応した正当な存在ロジックが与えられていないと無意味なように、存在のない「記号」からパラドックスが生まれてもそれは必然である。

「存在、論理」 は、根拠となる 「存在、論理」 によって正当化される。その地続きとなる 「構成的論理」 により論理の正当性は堅持される。途中の飛躍はそれを分断する。

コンピュータもハード、OS、アプリケーションソフトと地続きとなるロジックにより動作は保証される。何か問題があれば動かないのでコンピュータはわかりやすいが、それを机上で全てチェックするとなると誰でも困難である。

誰しも生まれたときから数学体系は存在し、体系の生成過程については知らない。従って、思考によりその論理的起源は証されるが、それを実際に行おうとしたのが直観主義者であり、機械を通じて行ったのがコンピュータ設計者である。

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アヨアン・イゴカー

アヨアン・イゴカーと申します。初めまして。
大変興味深い記事を書いていらっしゃいますので、時々拝読したいと思います。よろしくお願いします。
社会学を専門にしている人物から、フッサールは面白い!と太鼓判をおされて、読もうとしましたが、つい積読になっています。
by アヨアン・イゴカー (2008-03-09 22:33) 

YagiYuki

どうもこんにちは。

社会学ではアルフレッド・シュッツがフッサールの流れを継いでいるようです。フッサールよりは読みやすいかも知れません。
by YagiYuki (2008-03-14 21:08) 

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