観測と空間 (序 / X) [科学系]
科学哲学には大きく分けて実在論と反実在論の二つの立場が存在する。
構成的な科学論は反実在論の一種であり、世界は人間主観、実在との相関存在と考える。
構成論は(素朴な観念論のように)「実在を否定する」のではなく、「実在する」ということの本来の構造を明らかにするのであり、否定するのは人間主観と分離した「自体的な実在」である。
現実は人間相関であり、現実を扱う科学理論の最終的な検証は実験である。ある対象に対し多数の有望な理論が現れた場合、どれを有効とするかは本来実験するしかない。
(未来に)何ら検証可能性のない理論はその妥当性を確かめることができない。
実験は失敗が大半であり、成功は僅かなチョイスの積み重ねである。研究は新たなことの模索であり、それは失敗がついてまわる。既存の範囲からは既存の結果しか生まれない。
経済や社会も人間相関である。従って、経済理論も社会理論も(ビジネスでは通常自然とそうなるように)過去検証や予測に基づいた実験検証が重要視される。
しかし、難しいのは、過去を反復しない面が多くあることや関連要素が多過ぎること、主観、意志、行為、価値判断による変化要素がありすぎるなど、人間行為の偶然、恣意的影響が大きいことである。それにより一般に変化後の側面的解釈論になりやすい。
科学は基本的にその対象について誰が何度繰り返してもほぼ同一現象を生じるのに対し、経済・社会というのはそういうものではなく、人間の社会・経済行為そのものがそれ全体をなす。
科学は、心以外の対象を目指しており、脳などに対する研究も具体対象としての研究である。対象を研究するとき、その内容が主観の差により影響を受けないことを(一応)目標にしている。
しかし、社会や経済はその対象自身が人間主観や他者主観の関係全体である。これらは信用関係の上にある種不安定に成り立っている。
§ 科学理論
科学理論には厳密な理論は本来ない。あるのは現在の考えとして現実的に「より妥当」なモデルである。
「より妥当」という言葉には、経験的、現実的にその対象に則した多数関係する要素を包括する意味が含まれる。
物理学では、「観測する人、行為」や「観測装置」「観測環境」「観測対象の状態」「結果の見方」「満足精度」「既存理論との整合」なども(普段は無意識であれ)含まれる。
物理は数式を用いて表現されることが多いが、数式の答えは現象そのものではない。
理論は人間の知性の側にあり、自然の側にない。
物理は、対象が自然であり、自然は感性を通じた経験である。数式は定義された記号概念と数値の組み合わせであり、数学的理念の形式である。
数学は、数学的理念、論理の内で「閉じる」ので、定義・公理問題など矛盾がなければ一旦完全に証明されると「永遠に真」である。
しかし、物理学の説明は「真」ではなく、装置を媒介した感性現象の中のある反復する因果と数学的理念の「調和」である。複雑多様に絡み合う現実を「ある見方で斬る」ことによって人間に理解できるようにする、その集積である。
よって「永遠に真」というのはなく「現状妥当」なものである。
もしそうでなければ、将来何を発見してもその説明は覆ることはなくなり、それは科学の進化の歴史と現在を否定する。
従って、科学説には幅があり、複雑になるほど妥当~そうでないか考えが分かれる。グレーゾーンから怪しいもの、SF的なものまで何を妥当とするか判断力が求められる。
現象の中での反復が「幾何学」モデルや「数式」「統計」により誰でも観測条件を同一にすれば確認できる場合、それは妥当な物理理論である。
最初は簡便な定義での数式化から始まり、それが無理であれば近似式や幾何モデル・イメージ化、確率・統計的な手法が模索されると思われる。
物理の定義は「真」なものではなく、人間がある基準を元に作った簡便な「現実的ものさし」である。しかし、一旦定義されると、それ以降論理的正誤はある。
例えば、数学において「3」という対象はいつもその理念と一致している。
しかし、ある物体の「3㎝」「3㎏」という現実的対象は人間観測における測定値であり、精密さにおいての誤差の範囲での満足精度である。「理念」から「対象測定」までには人間感性的調和がここに含まれる。
対象に応じて「精密」~「蓋然的」な調和となり、関係が複雑になるほど調和は困難となる。(単純測定や天気予報などを考えればいい)
空間定義も「客観的」にあるのではなく、ある局面では、ユークリッド幾何学が最も簡素で便利であり、ある局面では、非ユークリッド幾何学を用いた方が現実観測に適合した構造を描ける、ということである。
それまでの理論で説明できない現象が発見されると、その理論を包括する、又は異なる理論が模索されるが、どれほど高性能な理論であっても、未知の現象が未来に現れる可能性はいつでもある。
ある有望な理論による予測も「実測」により確かめられるまでは「仮」である。
元々、現在の理論も「現象」に適合しない理論は却下されてきたはずである。従って、有望な理論もそれまでの現象内では有望であるが、未知の現象に対する万能性は保証されていない。
今まで覆らなかった理論もその理論が証明された訳ではなく、帰納的に今まで覆らなかっただけであり、「今までの実験の結果残ってきたので覆る可能性は極めて確率的に低い」としても「全く覆らない」ことが演繹的に証明されてるとはいえない。
現象はあっても原理のないものもあり、それは問題にならない。何故なら、原理は人間にとっての便利な形式であり、自然がそれほど便利さを提供しているわけではないからである。
科学の限界は、自然と数学的理念の形式的「違い」であり、科学の適用は、自然と数学的理念の経験的「調和」である。
近似や誤差がある時点でそうであり、自然は完全には理論化できないが「調和の度合い」を増すことはできる。
§ 特殊相対論の前提
※詳細は解説書やサイトを参照のこと
マイケルソン-モーレーの実験は「光を伝える媒質(=エーテル)」の存在による光速の変化を確かめるための実験である。
エーテルという媒質により光が伝達されるとすると、地球の公転運動と光の方向の違いから光行差が確認されるはずであるが、期待された結果は得られず、エーテルという媒質に疑問符が付される。
この実験は「エーテル」を前提としたものであり、この実験によって「光源運動する光の速度の観測」に結論が下されたとはいえない、または微妙である。
実験結果である干渉縞の観測も「光(干渉縞からの光)の観測」に頼っているのであり「光によって光を観測する」と循環論的問題もある。
ローレンツ等はエーテル説をあきらめず、エーテルに対して運動する実験装置全体は進行方向に縮む(ローレンツ-フィッツジェラルド収縮)仮説を提示する。
ポアンカレはエーテルの存在を否定し、絶対時空から相対時空、絶対視点から観測者視点への転換を行い、特殊相対論の基礎を築く。
特殊相対論についてはローレンツ、ポアンカレを中心に断続的に考察が進められ、科学思想的なバックボーンから必然的に生まれている。
元々特殊相対論は思想的に経験論的(構成的)であり、観測者間の同期という点でも間主観的な考えを用いている。
§ 特殊相対論
特殊相対論を構成的な視点で捉えると次のようになる。
● 人は超越者の視点に立つことはできない
● 本来は、観測者視点しかなく、「そう見える」物理法則を考える
● 「そう見える」というのは「光」によってそう見えるのであり、伝達する媒質である光(電磁波)が届かなければ、物体があろうとなかろうと観測者はそれを把握できない
● 物理的意味での時間や空間の概念は一つの決めごとである
● 物体を「光による意識構成現象」として捉えるのであり、「光(光速)」を中心に観測対象の「時間」「空間(距離)」の概念を転換させる
● 超越者視点での一様な「絶対空間、絶対時間」から観測者視点での観測単位での「相対空間、相対時間」への転換である
● 「絶対空間、絶対時間」では、遠くの物体は瞬時に観測できることが前提になっているが、そのような媒質はなく、光により観測を行った場合には誤差が生じる
● 運動している観測対象の「時間が遅れる」というのは、観測対象にある「時計」を観た場合、光の到達には時間がかかるので、手元の時計と比較すると「遅れているように見える」というだけである(時計、時間の遅れというのは2つの時計の比較でしかない)
● 端的に言えば、物体を観測するとは「物体からの(反射)光を観測する」のだから、「光の加減で」縮んだり、遅れたりして見えるというだけである
● 「見かけ」と「実体」があるとすると、それは「見かけ」の物理法則に過ぎないのではないかという疑問もあるが、そもそも「実体」とは超越者の視点か実体側(観測対象側の観測者)の視点になっている(のであり、そういうものは本来ない)
それまでの物理学は「絶対空間」「実体法則」を基本としていたが、それは「速度無限大の可能観測」と同じことである。
そういう媒質はなく、限界速度をもつ光による観測しかない。
物体観測は光による現象の把握だから、光速を基準にした観測(見え方)の物理法則を作った方が適切である。
超高速なロケットは観測すると「光の加減で」進行方向に「縮んで見える」だけで、実際に「縮む」わけではない。実際に「縮む」とすると、速度を緩めると「伸びる」ことになってしまう。
つまり、現実的観測というのは「あるものさし」との比較であり、「縮む」「伸びる」というのは、その「ものさし」との比較である。
「ものさし」は正しい「ものさし」ではなく、現実観測により適合する簡便な「ものさし」であり、経験的な根拠に基づく。
「時間と空間は、自然が我々にこれを課するのではなくて、我々が便利だと思うので、これらを自然に課するのである」(ポアンカレ)
§ 光速度不変
特殊相対論において「光速度不変の原理は不要」(ジャン・ラディック)という考えがある。
「物体」の運動を観測する場合、物体からの「光(の反射)」に基づく。
絶対空間では、光は無限大の速度をもつのと同じように扱われる。しかし、光は有限の速度しかないから、特殊相対論では光速により観測法則は補正される。
では、「光」の運動を観測する場合、何に基づくのか?
同様に考えるなら、「光」から発する「無限大の速度をもつ媒質」がなければならない。あるいは、「光」から発する「光よりも速い媒質」により、相対論効果と同様に「光よりも速い媒質」に合わせた別の相対論が必要になる。
しかし、そういう媒質はないから、やはり「光」に基づくしかない。
これでは循環論である。
「光源運動する光速の測定」というのは、ある「絶対空間」「無限大速度可能観測」あるいは「光速以上の基準」に基づいた発想である。
そういう媒質は(観測媒質として)ないから、「相対論」では「光速」を基準にした観測者視点での物理法則が考えられた。
従って、「光速度不変」というよりも、「光速は一定にしか観測できないから、視点と光の限界速度を基準にした観測物理法則にする」という方がその思想に合っている。
つまり、「光を基準にする」なら物理的には「光速度不変」と同じである。
「光速度は客観的に不変か?」という問いは本来問題にならない。
何故なら「光速は一定にしか観測できない」(相対観測空間)と「光速度は客観的に一定」(絶対空間)とは意味が違うからである。
「光の客観的性質」が問題になっているのではなく、「光の現実観測的性質」が問題になっている。
「光速は一定にしか観測できない」+「空間とは視点を中心とした光構成による相対空間(主観的空間)である」=「光(速)を中心とした観測物理法則にすればいい」というのがポアンカレの回答と思われる。
簡単に言うと「客観空間はなく、主観空間しかない」その主観空間は「光により構成される」ということである。
視覚により「物体運動を観測する」ということは「光を基準にする」ということであり、それはつまり「人間観測を基準にする」ということでしかない。
人は「視点があり」そこから「空間が拡がっている」とイメージする。しかし、これは後者に客観的な絶対空間が混入している見方である。「視点を中心に光により意識構成されるものが空間」である。
頭の中で自然と第三者的な客観的な構図を描いているのを主観的な構図に切り替えるのである。
そうすると、高速ロケットが縮んだり伸びたりしても不思議ではない。
「ローレンツ収縮はいわば、速度に基づく遠近法の一種である」(ワイル)
物理法則として「視点と光」に「空間」概念を合わせるのは以上のような根拠をもつ。そして「光速」と「空間」から対象の「時間」も導かれる。
一般相対論では「時空が歪む(から→)光が曲がる」と説明されるが、相対論の基本的な考えとして「視点に対する光(の進行)」=「空間」と考えた方が観測法則として妥当ということである。
光を中心に考えた意味での「時空」が相対論の時空である。
「光が曲がったかどうか」というのは「曲がっていない」と解釈される光との比較である。「曲がっていない」光も統計的に通常の光ということで絶対基準ではない。
§ 宇宙
宇宙論を4次元時空で考えることは「上記の意味で」根拠をもち、「宇宙は客観的に4次元である」というのとは異なる。また次元の増加には相応の経験的根拠が必要である。
観測法則を変化させない限り、物理的宇宙空間とは人が「観測できる空間」のことを指す。
電磁波を発しない見えない物質についても、計測は光の歪み(と解釈される現象)を利用し予測している。
では、電磁波などの方法で何ら観測できない物質が宇宙にある場合どうなるのか?
その場合は知りようがないのである。
「全宇宙」は知りえず、人が知るのはその時点までの発見部分である。
その宇宙は、間主観観測的な構成的宇宙である。
(知らない宇宙は、いつも知られた宇宙の外側にあるかもしれないし、ないかもしれない)
構成的な科学論は反実在論の一種であり、世界は人間主観、実在との相関存在と考える。
構成論は(素朴な観念論のように)「実在を否定する」のではなく、「実在する」ということの本来の構造を明らかにするのであり、否定するのは人間主観と分離した「自体的な実在」である。
現実は人間相関であり、現実を扱う科学理論の最終的な検証は実験である。ある対象に対し多数の有望な理論が現れた場合、どれを有効とするかは本来実験するしかない。
(未来に)何ら検証可能性のない理論はその妥当性を確かめることができない。
実験は失敗が大半であり、成功は僅かなチョイスの積み重ねである。研究は新たなことの模索であり、それは失敗がついてまわる。既存の範囲からは既存の結果しか生まれない。
経済や社会も人間相関である。従って、経済理論も社会理論も(ビジネスでは通常自然とそうなるように)過去検証や予測に基づいた実験検証が重要視される。
しかし、難しいのは、過去を反復しない面が多くあることや関連要素が多過ぎること、主観、意志、行為、価値判断による変化要素がありすぎるなど、人間行為の偶然、恣意的影響が大きいことである。それにより一般に変化後の側面的解釈論になりやすい。
科学は基本的にその対象について誰が何度繰り返してもほぼ同一現象を生じるのに対し、経済・社会というのはそういうものではなく、人間の社会・経済行為そのものがそれ全体をなす。
科学は、心以外の対象を目指しており、脳などに対する研究も具体対象としての研究である。対象を研究するとき、その内容が主観の差により影響を受けないことを(一応)目標にしている。
しかし、社会や経済はその対象自身が人間主観や他者主観の関係全体である。これらは信用関係の上にある種不安定に成り立っている。
§ 科学理論
科学理論には厳密な理論は本来ない。あるのは現在の考えとして現実的に「より妥当」なモデルである。
「より妥当」という言葉には、経験的、現実的にその対象に則した多数関係する要素を包括する意味が含まれる。
物理学では、「観測する人、行為」や「観測装置」「観測環境」「観測対象の状態」「結果の見方」「満足精度」「既存理論との整合」なども(普段は無意識であれ)含まれる。
物理は数式を用いて表現されることが多いが、数式の答えは現象そのものではない。
理論は人間の知性の側にあり、自然の側にない。
物理は、対象が自然であり、自然は感性を通じた経験である。数式は定義された記号概念と数値の組み合わせであり、数学的理念の形式である。
数学は、数学的理念、論理の内で「閉じる」ので、定義・公理問題など矛盾がなければ一旦完全に証明されると「永遠に真」である。
しかし、物理学の説明は「真」ではなく、装置を媒介した感性現象の中のある反復する因果と数学的理念の「調和」である。複雑多様に絡み合う現実を「ある見方で斬る」ことによって人間に理解できるようにする、その集積である。
よって「永遠に真」というのはなく「現状妥当」なものである。
もしそうでなければ、将来何を発見してもその説明は覆ることはなくなり、それは科学の進化の歴史と現在を否定する。
従って、科学説には幅があり、複雑になるほど妥当~そうでないか考えが分かれる。グレーゾーンから怪しいもの、SF的なものまで何を妥当とするか判断力が求められる。
現象の中での反復が「幾何学」モデルや「数式」「統計」により誰でも観測条件を同一にすれば確認できる場合、それは妥当な物理理論である。
最初は簡便な定義での数式化から始まり、それが無理であれば近似式や幾何モデル・イメージ化、確率・統計的な手法が模索されると思われる。
物理の定義は「真」なものではなく、人間がある基準を元に作った簡便な「現実的ものさし」である。しかし、一旦定義されると、それ以降論理的正誤はある。
例えば、数学において「3」という対象はいつもその理念と一致している。
しかし、ある物体の「3㎝」「3㎏」という現実的対象は人間観測における測定値であり、精密さにおいての誤差の範囲での満足精度である。「理念」から「対象測定」までには人間感性的調和がここに含まれる。
対象に応じて「精密」~「蓋然的」な調和となり、関係が複雑になるほど調和は困難となる。(単純測定や天気予報などを考えればいい)
空間定義も「客観的」にあるのではなく、ある局面では、ユークリッド幾何学が最も簡素で便利であり、ある局面では、非ユークリッド幾何学を用いた方が現実観測に適合した構造を描ける、ということである。
それまでの理論で説明できない現象が発見されると、その理論を包括する、又は異なる理論が模索されるが、どれほど高性能な理論であっても、未知の現象が未来に現れる可能性はいつでもある。
ある有望な理論による予測も「実測」により確かめられるまでは「仮」である。
元々、現在の理論も「現象」に適合しない理論は却下されてきたはずである。従って、有望な理論もそれまでの現象内では有望であるが、未知の現象に対する万能性は保証されていない。
今まで覆らなかった理論もその理論が証明された訳ではなく、帰納的に今まで覆らなかっただけであり、「今までの実験の結果残ってきたので覆る可能性は極めて確率的に低い」としても「全く覆らない」ことが演繹的に証明されてるとはいえない。
現象はあっても原理のないものもあり、それは問題にならない。何故なら、原理は人間にとっての便利な形式であり、自然がそれほど便利さを提供しているわけではないからである。
科学の限界は、自然と数学的理念の形式的「違い」であり、科学の適用は、自然と数学的理念の経験的「調和」である。
近似や誤差がある時点でそうであり、自然は完全には理論化できないが「調和の度合い」を増すことはできる。
§ 特殊相対論の前提
※詳細は解説書やサイトを参照のこと
マイケルソン-モーレーの実験は「光を伝える媒質(=エーテル)」の存在による光速の変化を確かめるための実験である。
エーテルという媒質により光が伝達されるとすると、地球の公転運動と光の方向の違いから光行差が確認されるはずであるが、期待された結果は得られず、エーテルという媒質に疑問符が付される。
この実験は「エーテル」を前提としたものであり、この実験によって「光源運動する光の速度の観測」に結論が下されたとはいえない、または微妙である。
実験結果である干渉縞の観測も「光(干渉縞からの光)の観測」に頼っているのであり「光によって光を観測する」と循環論的問題もある。
ローレンツ等はエーテル説をあきらめず、エーテルに対して運動する実験装置全体は進行方向に縮む(ローレンツ-フィッツジェラルド収縮)仮説を提示する。
ポアンカレはエーテルの存在を否定し、絶対時空から相対時空、絶対視点から観測者視点への転換を行い、特殊相対論の基礎を築く。
特殊相対論についてはローレンツ、ポアンカレを中心に断続的に考察が進められ、科学思想的なバックボーンから必然的に生まれている。
元々特殊相対論は思想的に経験論的(構成的)であり、観測者間の同期という点でも間主観的な考えを用いている。
§ 特殊相対論
特殊相対論を構成的な視点で捉えると次のようになる。
● 人は超越者の視点に立つことはできない
● 本来は、観測者視点しかなく、「そう見える」物理法則を考える
● 「そう見える」というのは「光」によってそう見えるのであり、伝達する媒質である光(電磁波)が届かなければ、物体があろうとなかろうと観測者はそれを把握できない
● 物理的意味での時間や空間の概念は一つの決めごとである
● 物体を「光による意識構成現象」として捉えるのであり、「光(光速)」を中心に観測対象の「時間」「空間(距離)」の概念を転換させる
● 超越者視点での一様な「絶対空間、絶対時間」から観測者視点での観測単位での「相対空間、相対時間」への転換である
● 「絶対空間、絶対時間」では、遠くの物体は瞬時に観測できることが前提になっているが、そのような媒質はなく、光により観測を行った場合には誤差が生じる
● 運動している観測対象の「時間が遅れる」というのは、観測対象にある「時計」を観た場合、光の到達には時間がかかるので、手元の時計と比較すると「遅れているように見える」というだけである(時計、時間の遅れというのは2つの時計の比較でしかない)
● 端的に言えば、物体を観測するとは「物体からの(反射)光を観測する」のだから、「光の加減で」縮んだり、遅れたりして見えるというだけである
● 「見かけ」と「実体」があるとすると、それは「見かけ」の物理法則に過ぎないのではないかという疑問もあるが、そもそも「実体」とは超越者の視点か実体側(観測対象側の観測者)の視点になっている(のであり、そういうものは本来ない)
それまでの物理学は「絶対空間」「実体法則」を基本としていたが、それは「速度無限大の可能観測」と同じことである。
そういう媒質はなく、限界速度をもつ光による観測しかない。
物体観測は光による現象の把握だから、光速を基準にした観測(見え方)の物理法則を作った方が適切である。
超高速なロケットは観測すると「光の加減で」進行方向に「縮んで見える」だけで、実際に「縮む」わけではない。実際に「縮む」とすると、速度を緩めると「伸びる」ことになってしまう。
つまり、現実的観測というのは「あるものさし」との比較であり、「縮む」「伸びる」というのは、その「ものさし」との比較である。
「ものさし」は正しい「ものさし」ではなく、現実観測により適合する簡便な「ものさし」であり、経験的な根拠に基づく。
「時間と空間は、自然が我々にこれを課するのではなくて、我々が便利だと思うので、これらを自然に課するのである」(ポアンカレ)
§ 光速度不変
特殊相対論において「光速度不変の原理は不要」(ジャン・ラディック)という考えがある。
「物体」の運動を観測する場合、物体からの「光(の反射)」に基づく。
絶対空間では、光は無限大の速度をもつのと同じように扱われる。しかし、光は有限の速度しかないから、特殊相対論では光速により観測法則は補正される。
では、「光」の運動を観測する場合、何に基づくのか?
同様に考えるなら、「光」から発する「無限大の速度をもつ媒質」がなければならない。あるいは、「光」から発する「光よりも速い媒質」により、相対論効果と同様に「光よりも速い媒質」に合わせた別の相対論が必要になる。
しかし、そういう媒質はないから、やはり「光」に基づくしかない。
これでは循環論である。
「光源運動する光速の測定」というのは、ある「絶対空間」「無限大速度可能観測」あるいは「光速以上の基準」に基づいた発想である。
そういう媒質は(観測媒質として)ないから、「相対論」では「光速」を基準にした観測者視点での物理法則が考えられた。
従って、「光速度不変」というよりも、「光速は一定にしか観測できないから、視点と光の限界速度を基準にした観測物理法則にする」という方がその思想に合っている。
つまり、「光を基準にする」なら物理的には「光速度不変」と同じである。
「光速度は客観的に不変か?」という問いは本来問題にならない。
何故なら「光速は一定にしか観測できない」(相対観測空間)と「光速度は客観的に一定」(絶対空間)とは意味が違うからである。
「光の客観的性質」が問題になっているのではなく、「光の現実観測的性質」が問題になっている。
「光速は一定にしか観測できない」+「空間とは視点を中心とした光構成による相対空間(主観的空間)である」=「光(速)を中心とした観測物理法則にすればいい」というのがポアンカレの回答と思われる。
簡単に言うと「客観空間はなく、主観空間しかない」その主観空間は「光により構成される」ということである。
視覚により「物体運動を観測する」ということは「光を基準にする」ということであり、それはつまり「人間観測を基準にする」ということでしかない。
人は「視点があり」そこから「空間が拡がっている」とイメージする。しかし、これは後者に客観的な絶対空間が混入している見方である。「視点を中心に光により意識構成されるものが空間」である。
頭の中で自然と第三者的な客観的な構図を描いているのを主観的な構図に切り替えるのである。
そうすると、高速ロケットが縮んだり伸びたりしても不思議ではない。
「ローレンツ収縮はいわば、速度に基づく遠近法の一種である」(ワイル)
物理法則として「視点と光」に「空間」概念を合わせるのは以上のような根拠をもつ。そして「光速」と「空間」から対象の「時間」も導かれる。
一般相対論では「時空が歪む(から→)光が曲がる」と説明されるが、相対論の基本的な考えとして「視点に対する光(の進行)」=「空間」と考えた方が観測法則として妥当ということである。
光を中心に考えた意味での「時空」が相対論の時空である。
「光が曲がったかどうか」というのは「曲がっていない」と解釈される光との比較である。「曲がっていない」光も統計的に通常の光ということで絶対基準ではない。
§ 宇宙
宇宙論を4次元時空で考えることは「上記の意味で」根拠をもち、「宇宙は客観的に4次元である」というのとは異なる。また次元の増加には相応の経験的根拠が必要である。
観測法則を変化させない限り、物理的宇宙空間とは人が「観測できる空間」のことを指す。
電磁波を発しない見えない物質についても、計測は光の歪み(と解釈される現象)を利用し予測している。
では、電磁波などの方法で何ら観測できない物質が宇宙にある場合どうなるのか?
その場合は知りようがないのである。
「全宇宙」は知りえず、人が知るのはその時点までの発見部分である。
その宇宙は、間主観観測的な構成的宇宙である。
(知らない宇宙は、いつも知られた宇宙の外側にあるかもしれないし、ないかもしれない)
>物理は数式を用いて表現されることが多いが、数式の答えは現象そのものではない。
>理論は人間の知性の側にあり、自然の側にない。
>科学の限界は、自然と数学的理念の形式的「違い」であり、科学の適用は、自然と数学的理念の経験的「調和」である。
>近似や誤差がある時点でそうであり、自然は完全には理論化できないが「調和の度合い」を増すことはできる。
含蓄のある文章です。大変興味深く読ませて頂きました。
書かれている通りではないかと思いました。
ガリレオは単位のない物には単位を作って計れ、と言いましたが、これは実に科学的な思考法だと感動しました。そして、単位のみならず、言葉は人間が作り出したものに過ぎないのに、いつしか自分の作った言葉に縛られている自分を見出します。時間や空間の概念もそうです。
初心に帰った気がします。
by アヨアン・イゴカー (2008-08-08 12:35)
お褒め頂いてありがとうございます。
哲学の話は調べていくと既に明示され解決済みの問題があまりに多いのに驚きます。有名なパラドックス問題もほとんど解決しているとしか思えないのですが、哲学は奇妙に批判が繰り返せ、共通理解に至らない最たるもののようです。
by YagiYuki (2008-08-09 21:46)