無限 (1/2) [数学系]
数学の基礎づけ論争から派生する内容は複雑であるが、追っていくとほぼ論点は出ている。
以前考慮できなかった部分について補っていく。若干史実的に合わない部分もあるかもしれないが、明瞭さを優先する。
数学の哲学に関係する部分はポアンカレがほぼ基点になっている。
ブラウワー(以降)の直観主義はポアンカレ(半直観主義)を継承した。しかし、直観主義を現実に適用すると狭い数学にしかならず、制限されるものが多くなる。
ということでワイルなど(半直観主義者)はブラウワー直観主義を少し留保した。
§ 点と線
「線は点からなるのか?」
これについては2つの定義が存在する。
(1) 線は点の集まりではない
「点とは部分のないものである。線とは幅のない長さである。面とは長さと幅のみを持つものである」 (ユークリッド)
この定義では、点は部分をもたないので、点を集めても線にはならない。
点は 0 次元、線は 1 次元、面は 2 次元と考えられる。
この定義を拡張するとポアンカレの多次元に関する定義になる。
● ある連続体の切断面(切り口)が 0 次元のとき、その連続体は 1 次元である
● 切断面が 1 次元であるとき、連続体は 2 次元である
● 以下、切断面が n 次元であるとき、連続体は n+1 次元である
これはユークリッドの定義を多次元まで拡張し柔軟にしたものである。
例えば、直線(1次元)の切断面は点(0次元)であり、面(2次元)の切断面は直線(1次元)であり、立方体(3次元)の切断面は面(2次元)である。
4 次元の切断面は 3 次元である。直観的にはわかりにくいが、抽象的には理解できる。以下、無限次元に拡張できる。
「線は点の集まりでない」 とすると、「線分1」 の中で点は 「線分0」 であり、 0 をいくらたしても(無限にたしても) 1 にならない。
この定義では点は線の中で 「位置のみ」 を指示する。
(2) 線は点の集まりである
「点とは、その部分がないものではなく、またその部分が考えられないものでもなく、その延長が 0 というものである。あるいはその部分が離れていない、その量が考察不能、指示不可能なものである」 (ライプニッツ)
ユークリッドの定義とライプニッツの定義は相反する。
「量」 という概念が、算術と幾何学の融合から生まれ、特に解析学(微積分)において発展する。 「無限小」 という概念が解析学に便利さをもたらす。
ただ、この定義は構成的に不明瞭な部分を抱え込むことになり、ライプニッツの当時から哲学者や数学者によって議論になる。
例えば、「線分1」 の中で点は部分となり、点をたすと 「線分1」 になる。従って点は 「線分0」 ではなく 「線分無限小」 とでもいうべきものになる。
しかし、「無限小」 をたすと 「1」 になるとすると、それは 「無限回」 たすのであるが、
「無限小」 × 「無限大」 = 1
× ∞ = 1
とでもいうものになるが、これは変である。 ∞ は 「値」 ではなく、比較演算できないからである。
「無限小」 とは何か? 「無限に小さくなるもの」 は静的な 「値」 ではない。
従って、この考えは直観的、構成的な考えではなく、抽象的な定義である。
しかしこれをこの部分で問題視するのは早く、「無限小」 と 「無限大」 は本質的に異なる。
解析学は、主にケプラー、ニュートン、ライプニッツ、オイラー、コーシー、ワイエルシュトラス、デーデキントなどにより発展する。
§ 有限主義
それに異議を唱えたのがクロネッカーである。
「数学の算術化。整数の上に有限回の演算のみを認める数学のプログラム。 という数など観念の中でしか存在しなく、数学は形而上学ではない」 (クロネッカー)
「哲学的な理由から、整数又はせいぜい有理数だけの存在は認めるが、無理数を完全に追放したいと思っていたクロネッカーにとって、ワイエルシュトラス流の関数論は基礎づけが不十分であると考えた」 (クライン)
クロネッカーの哲学は 「有限主義」 に近い。 (ただ数学上は必ずしも 「有限主義」 ではなかったようである)
例えば、コンピュータにおいてデータは on か off かのビットで扱われ全て 2 進数である。これは自然数から構成されるものしか認めなかったクロネッカーの立場に近い。 2 進法も 10 進法も桁の繰り上がりの値が違うだけで構造は同じのものである。
有理数は のように 0.333… と循環小数になるものもあるが、これはコンピュータでも分母と分子の 2 データもてばいいので正確に値をもつことはできる。
しかし、無理数のデータは正確に値をもつことはできない。もし、計算で求められるとしても無限の操作が必要である。クロネッカーは 「永遠に続く操作概念」 などというのは観念上でしか存在しないではないかと疑い、「無限操作」 によって成り立つものを追放しようとした。
但し、一つの立場として有限主義は考えられるが、それで一元化しようとするとかなり狭い数学にしかならない。一元化は極端で同意は難しいが、多元的な数学の一端としては成り立つ。
実際、計算機科学の基礎に近く、コンピュータは有限主義である。時間は有限であり、データ領域も有限である。どれほど高速にして、領域を増やしてもそうである。
無限はプログラムでは永遠ループ ( C言語では while(1) ) となる。しかし、時間が有限なので本当はコンピュータ上でも有限ループである。
(時間は有限であり、人の心理的時間と共にある。しかし、無限可能性を未来にもち、これは数理哲学のテーマとなりうる。数学の操作、ステップは時間と無関係なものだろうか、無限はどうか?)
実数は解析学上 「数」 的なものではなく 「量」 的なものとして定義される。それにより 「実数の連続性」 という公理、概念を満たす。
「量」 的なものは、極限や無限小という無限概念で成り立つ。
§ 関数
次の関数があるとする。
(A) y = 2x
これを直交座標系で示すと
(B)
このような直線が描かれる。
(A) も (B) も x, y は -∞ ~ +∞ の値をもつことができる。
では、(A) と (B) は等しいと言えるのか?
変な疑問かもしれないが、次のように言葉を変えてみる。
(B) の直線は 「部分をもたない点の集合」 だろうか、それとも 「連続線」 だろうか?
「点(0次元)の集まり」 だろうか 「線(1次元)」 だろうか?
§ 実数
実数は 「実数の完備化」 という手続きで 「直線上での点の位置が各実数に対応」 する。
「完備化」 という手続きは位相空間の完備化という手続きに平行する。極限値の集合により実数は完備され(極限値が切れずに繋がる)、「実数の連結性」 として説明される。
(Wikipedia 実数、極限、コーシー列、完備距離空間、連続(数学)などを参照)
直線の位置は実数(の極限)で完備されるが、この概念は難しいので、数学的にはほぼ同値の 「実数の連続性」 に焦点を当てる。
「実数の連続性」 というと、ある実数の「隣」に実数がありそれが連続するとイメージさせる。しかしこの概念は構成的問題を持つ。
ある実数を x1 とする。 x1 の「隣」に + 方向へ x2 があるとすると、
もし、x2 - x1 = 0 であれば、x2 と x1 は同じなので矛盾する。
x2 - x1 = k > 0 で、k がある正の値ならば、k/2 など x2 と x1 の間に数がありこれも矛盾する。
従って、k は 「無限小」 とでもいうべきものであるが、これは構成的には不明瞭である。
「無限小」 にも違いがあると見なすこともでき、n → ∞ で と は両方無限小となるが、n が有限では異なるので、「無限小」にも違いがあると見なすこともできる。
実数が連続するという 「量」 的な考えにクロネッカーは異議を唱えた。彼は 「無限の操作」 を認めなかったので、極限も基本的には認められないことになる。
それでは数学はかなり不便なので、ポアンカレはこうした(解析学上の)収束する極限は問題ないと考え、「収束しない極限、無限操作の扱い」 のみ問題視した。
クロネッカーはワイエルシュトラス流解析学に批判的であったが、ポアンカレは肯定的である。
§ 実数は点(0次元)か線(1次元)の一部か?
デーデキント切断 (Wikipedia デデキント切断などを参照) は、連続する実数をある点で切り分ける方法を定義する。
ある直線をある点で切断する。
例えば、次のように直線 a を a1 と a2 に点c において切断する。
点c は a1 (右端) か a2 (左端) のどちらか一方の端にくっつく。
この定義では、点c は直線の一部分 (無限小部分) であるというライプニッツ流を継承している。
点c には 「実数」 が対応し、「実数の連続性」 を満たすことができる。
つまり、実数は線(1次元)の部分点と同値という考えである。
しかし、ユークリッド流の 「線は点の集まりではない」 という考えを継承すると、数は線の中で位置のみを示す。従って実数も 0 次元の点として、線の中で位置のみを示す。
幅0の点をいくらたしても線にはならず、この考えは、ポアンカレの多次元の切断へ延長できる。
デーデキント切断では切断自体が一つの部分点(無限小点)を有するのに対し、ポアンカレの切断では部分点を有さない。
つまり、実数は 「1次元の線の無限小部分」 か 「0次元の点」 かとこれも二重の定義が存在する。
線を有理数で満たすと 「スカスカ」で あるとされる。従って、有理数の間を無理数で満たして 「ぎっしり詰まる」 ようにする。
しかし、実数が幅 0 であるならば、いくらたしても 0 である。従って、「スカスカ」 という概念自体が、ライプニッツ流の定義(点は部分をもつ)を継承したものであり、「ぎっしり詰まる」 というのもそうである。
§ 点と実数の関係
このように、点と実数の関係は二重性をもつ。
細かい部分は(複雑になるので)さておき、次のように2つの定義にわける。
ライプニッツ型では、点は線の部分だから、線は面の部分であり、すると点は面の部分でもある。そうなると次元という概念は通常の考えとは異なる。(次元という概念はなくなるとも考えられる)
(この延長上にカントールの 「平面上には直線上と同じ数だけ点がある」 という命題がある)
関数は 「連続線」 でなくても定義できるが、連続線であることにより 「実数の連続性」 が満たされ、それにより 「最大値・最小値の定理」 や 「中間値の定理」 などが扱える。
つまり、関数が 「繋がっている」 ことにより、「スパッ」 とある所で切っても必ずそれに対応する点(実数)が存在する。
関数が 「点の集合」 の場合、「スパッ」 とある所で切るとそれに対応する点(実数)が存在するかどうか、一致する点を証明しないといけないが、証明できない(または困難な)場合がある。 「連続性」 という概念がそれを保証し、実用上便利になる。
「線の連続性」 は 「実数の連続性」 により幾何学と算術が共存する。
ユークリッド型とライプニッツ型は混在し、使用はケースによるが、それにより微妙な問題が生ずる。構成的に不明瞭とされる部分があることになるが、複雑なテーマなのでここでは省略する。
以前考慮できなかった部分について補っていく。若干史実的に合わない部分もあるかもしれないが、明瞭さを優先する。
数学の哲学に関係する部分はポアンカレがほぼ基点になっている。
ブラウワー(以降)の直観主義はポアンカレ(半直観主義)を継承した。しかし、直観主義を現実に適用すると狭い数学にしかならず、制限されるものが多くなる。
ということでワイルなど(半直観主義者)はブラウワー直観主義を少し留保した。
§ 点と線
「線は点からなるのか?」
これについては2つの定義が存在する。
(1) 線は点の集まりではない
「点とは部分のないものである。線とは幅のない長さである。面とは長さと幅のみを持つものである」 (ユークリッド)
この定義では、点は部分をもたないので、点を集めても線にはならない。
点は 0 次元、線は 1 次元、面は 2 次元と考えられる。
この定義を拡張するとポアンカレの多次元に関する定義になる。
● ある連続体の切断面(切り口)が 0 次元のとき、その連続体は 1 次元である
● 切断面が 1 次元であるとき、連続体は 2 次元である
● 以下、切断面が n 次元であるとき、連続体は n+1 次元である
これはユークリッドの定義を多次元まで拡張し柔軟にしたものである。
例えば、直線(1次元)の切断面は点(0次元)であり、面(2次元)の切断面は直線(1次元)であり、立方体(3次元)の切断面は面(2次元)である。
4 次元の切断面は 3 次元である。直観的にはわかりにくいが、抽象的には理解できる。以下、無限次元に拡張できる。
「線は点の集まりでない」 とすると、「線分1」 の中で点は 「線分0」 であり、 0 をいくらたしても(無限にたしても) 1 にならない。
この定義では点は線の中で 「位置のみ」 を指示する。
(2) 線は点の集まりである
「点とは、その部分がないものではなく、またその部分が考えられないものでもなく、その延長が 0 というものである。あるいはその部分が離れていない、その量が考察不能、指示不可能なものである」 (ライプニッツ)
ユークリッドの定義とライプニッツの定義は相反する。
「量」 という概念が、算術と幾何学の融合から生まれ、特に解析学(微積分)において発展する。 「無限小」 という概念が解析学に便利さをもたらす。
ただ、この定義は構成的に不明瞭な部分を抱え込むことになり、ライプニッツの当時から哲学者や数学者によって議論になる。
例えば、「線分1」 の中で点は部分となり、点をたすと 「線分1」 になる。従って点は 「線分0」 ではなく 「線分無限小」 とでもいうべきものになる。
しかし、「無限小」 をたすと 「1」 になるとすると、それは 「無限回」 たすのであるが、
「無限小」 × 「無限大」 = 1
× ∞ = 1
とでもいうものになるが、これは変である。 ∞ は 「値」 ではなく、比較演算できないからである。
「無限小」 とは何か? 「無限に小さくなるもの」 は静的な 「値」 ではない。
従って、この考えは直観的、構成的な考えではなく、抽象的な定義である。
しかしこれをこの部分で問題視するのは早く、「無限小」 と 「無限大」 は本質的に異なる。
解析学は、主にケプラー、ニュートン、ライプニッツ、オイラー、コーシー、ワイエルシュトラス、デーデキントなどにより発展する。
§ 有限主義
それに異議を唱えたのがクロネッカーである。
「数学の算術化。整数の上に有限回の演算のみを認める数学のプログラム。 という数など観念の中でしか存在しなく、数学は形而上学ではない」 (クロネッカー)
「哲学的な理由から、整数又はせいぜい有理数だけの存在は認めるが、無理数を完全に追放したいと思っていたクロネッカーにとって、ワイエルシュトラス流の関数論は基礎づけが不十分であると考えた」 (クライン)
クロネッカーの哲学は 「有限主義」 に近い。 (ただ数学上は必ずしも 「有限主義」 ではなかったようである)
例えば、コンピュータにおいてデータは on か off かのビットで扱われ全て 2 進数である。これは自然数から構成されるものしか認めなかったクロネッカーの立場に近い。 2 進法も 10 進法も桁の繰り上がりの値が違うだけで構造は同じのものである。
有理数は のように 0.333… と循環小数になるものもあるが、これはコンピュータでも分母と分子の 2 データもてばいいので正確に値をもつことはできる。
しかし、無理数のデータは正確に値をもつことはできない。もし、計算で求められるとしても無限の操作が必要である。クロネッカーは 「永遠に続く操作概念」 などというのは観念上でしか存在しないではないかと疑い、「無限操作」 によって成り立つものを追放しようとした。
但し、一つの立場として有限主義は考えられるが、それで一元化しようとするとかなり狭い数学にしかならない。一元化は極端で同意は難しいが、多元的な数学の一端としては成り立つ。
実際、計算機科学の基礎に近く、コンピュータは有限主義である。時間は有限であり、データ領域も有限である。どれほど高速にして、領域を増やしてもそうである。
無限はプログラムでは永遠ループ ( C言語では while(1) ) となる。しかし、時間が有限なので本当はコンピュータ上でも有限ループである。
(時間は有限であり、人の心理的時間と共にある。しかし、無限可能性を未来にもち、これは数理哲学のテーマとなりうる。数学の操作、ステップは時間と無関係なものだろうか、無限はどうか?)
実数は解析学上 「数」 的なものではなく 「量」 的なものとして定義される。それにより 「実数の連続性」 という公理、概念を満たす。
「量」 的なものは、極限や無限小という無限概念で成り立つ。
§ 関数
次の関数があるとする。
(A) y = 2x
これを直交座標系で示すと
(B)
このような直線が描かれる。
(A) も (B) も x, y は -∞ ~ +∞ の値をもつことができる。
では、(A) と (B) は等しいと言えるのか?
変な疑問かもしれないが、次のように言葉を変えてみる。
(B) の直線は 「部分をもたない点の集合」 だろうか、それとも 「連続線」 だろうか?
「点(0次元)の集まり」 だろうか 「線(1次元)」 だろうか?
§ 実数
実数は 「実数の完備化」 という手続きで 「直線上での点の位置が各実数に対応」 する。
「完備化」 という手続きは位相空間の完備化という手続きに平行する。極限値の集合により実数は完備され(極限値が切れずに繋がる)、「実数の連結性」 として説明される。
(Wikipedia 実数、極限、コーシー列、完備距離空間、連続(数学)などを参照)
直線の位置は実数(の極限)で完備されるが、この概念は難しいので、数学的にはほぼ同値の 「実数の連続性」 に焦点を当てる。
「実数の連続性」 というと、ある実数の「隣」に実数がありそれが連続するとイメージさせる。しかしこの概念は構成的問題を持つ。
ある実数を x1 とする。 x1 の「隣」に + 方向へ x2 があるとすると、
もし、x2 - x1 = 0 であれば、x2 と x1 は同じなので矛盾する。
x2 - x1 = k > 0 で、k がある正の値ならば、k/2 など x2 と x1 の間に数がありこれも矛盾する。
従って、k は 「無限小」 とでもいうべきものであるが、これは構成的には不明瞭である。
「無限小」 にも違いがあると見なすこともでき、n → ∞ で と は両方無限小となるが、n が有限では異なるので、「無限小」にも違いがあると見なすこともできる。
実数が連続するという 「量」 的な考えにクロネッカーは異議を唱えた。彼は 「無限の操作」 を認めなかったので、極限も基本的には認められないことになる。
それでは数学はかなり不便なので、ポアンカレはこうした(解析学上の)収束する極限は問題ないと考え、「収束しない極限、無限操作の扱い」 のみ問題視した。
クロネッカーはワイエルシュトラス流解析学に批判的であったが、ポアンカレは肯定的である。
§ 実数は点(0次元)か線(1次元)の一部か?
デーデキント切断 (Wikipedia デデキント切断などを参照) は、連続する実数をある点で切り分ける方法を定義する。
ある直線をある点で切断する。
例えば、次のように直線 a を a1 と a2 に点c において切断する。
点c は a1 (右端) か a2 (左端) のどちらか一方の端にくっつく。
この定義では、点c は直線の一部分 (無限小部分) であるというライプニッツ流を継承している。
点c には 「実数」 が対応し、「実数の連続性」 を満たすことができる。
つまり、実数は線(1次元)の部分点と同値という考えである。
しかし、ユークリッド流の 「線は点の集まりではない」 という考えを継承すると、数は線の中で位置のみを示す。従って実数も 0 次元の点として、線の中で位置のみを示す。
幅0の点をいくらたしても線にはならず、この考えは、ポアンカレの多次元の切断へ延長できる。
デーデキント切断では切断自体が一つの部分点(無限小点)を有するのに対し、ポアンカレの切断では部分点を有さない。
つまり、実数は 「1次元の線の無限小部分」 か 「0次元の点」 かとこれも二重の定義が存在する。
線を有理数で満たすと 「スカスカ」で あるとされる。従って、有理数の間を無理数で満たして 「ぎっしり詰まる」 ようにする。
しかし、実数が幅 0 であるならば、いくらたしても 0 である。従って、「スカスカ」 という概念自体が、ライプニッツ流の定義(点は部分をもつ)を継承したものであり、「ぎっしり詰まる」 というのもそうである。
§ 点と実数の関係
このように、点と実数の関係は二重性をもつ。
細かい部分は(複雑になるので)さておき、次のように2つの定義にわける。
点 | 実数 | |
ユークリッド型 | 0次元で部分をもたない | 線の中である実数は位置のみ示す |
ライプニッツ型 | 部分点、無限小点 (何次元か規定しにくい) | 線の中で実数は部分点となり、連続する |
ライプニッツ型では、点は線の部分だから、線は面の部分であり、すると点は面の部分でもある。そうなると次元という概念は通常の考えとは異なる。(次元という概念はなくなるとも考えられる)
(この延長上にカントールの 「平面上には直線上と同じ数だけ点がある」 という命題がある)
関数は 「連続線」 でなくても定義できるが、連続線であることにより 「実数の連続性」 が満たされ、それにより 「最大値・最小値の定理」 や 「中間値の定理」 などが扱える。
つまり、関数が 「繋がっている」 ことにより、「スパッ」 とある所で切っても必ずそれに対応する点(実数)が存在する。
関数が 「点の集合」 の場合、「スパッ」 とある所で切るとそれに対応する点(実数)が存在するかどうか、一致する点を証明しないといけないが、証明できない(または困難な)場合がある。 「連続性」 という概念がそれを保証し、実用上便利になる。
「線の連続性」 は 「実数の連続性」 により幾何学と算術が共存する。
ユークリッド型とライプニッツ型は混在し、使用はケースによるが、それにより微妙な問題が生ずる。構成的に不明瞭とされる部分があることになるが、複雑なテーマなのでここでは省略する。
>(1) 線は点の集まりではない 「点とは部分のないものである。線とは幅のない長さである。面とは長さと幅のみを持つものである」 (ユークリッド)
線は点の集まりではなく、「点の軌跡」であり、面は「線が横に移動した軌跡の集合」であると、単純に思いますが如何でしょうか?
この世の中で連続して存在しないものは、ありえないと思います。点と言う単体は、観念、頭の中だけで存在し、実際には、点も線も存在しないのではないでしょうか。逆に言えば、それらは厳然と存在していて、人間の点、線、面と言う概念では表現できないだけなのではないか。ゼノンのパラドクスのようなもので、動いているものも、無限の分析を始めれば、動いていないと言う詭弁に陥ってしまいます。
以上、私は何も言っていないのと同じことを申し上げてしまいましたが。
by アヨアン・イゴカー (2008-11-22 12:08)
>線は点の集まりではなく、「点の軌跡」であり、面は「線が横に移動した軌跡の集合」であると、単純に思いますが如何でしょうか?
線は「点の軌跡」であるとすると、軌跡は連続するので「点を連続したものが線」となります。これは本論では「ライプニッツ」の定義と言えそうです。
>この世の中で連続して存在しないものは、ありえないと思います。点と言う単体は、観念、頭の中だけで存在し、実際には、点も線も存在しないのではないでしょうか。
これは、定義次第と思います。数学は「現実対象」ではなく「抽象対象」なので、「抽象として矛盾なく定義できればあり」です。
>逆に言えば、それらは厳然と存在していて、人間の点、線、面と言う概念では表現できないだけなのではないか。ゼノンのパラドクスのようなもので、動いているものも、無限の分析を始めれば、動いていないと言う詭弁に陥ってしまいます。
以上、私は何も言っていないのと同じことを申し上げてしまいましたが。
抽象対象は必ずしも正確には具体化できなくてもいいことになります。線も幅を持ってしかイメージできませんが、本当は幅はないです。
「動作」が入ると、「時間」「連続」という概念が絡んできます。
「飛ぶ矢は飛ばない」というゼノンのパラドックスは確か(?)アリストテレスの回答でよかったと思います。(ちょっと詳細は省略させて下さい)
by YagiYuki (2008-11-23 19:56)
≪…数学の基礎づけ論争…≫は、[数学思考](平面)では[点・線・面]の[数の言葉(自然数)]化で捉えるコトだ。
[点・線・面]の[言葉の量化]が[不可能]コトを、[数学]からの[送りモノ]として、十進法の基での桁表示の西洋数学の成果の6つのシェーマ(符号)から⦅自然数⦆を創っていることを「絵本」で・・・
[もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー)
by 言葉の量化と数の言葉の量化 (2020-10-04 20:34)