無限 (2/2) [数学系]
§ 無限操作と収束
無限とは有限でないことであり、無限と有限は対立概念である。
「数学の無限」 はある操作が継続するということであり、その 「操作内容」 は知られている。
無限には2種類の無限が存在する。(振動などはここでは除く)
収束する極限値を 「もつ」 ものと 「もたない(発散、無限操作)」 ものである。
有限主義と半直観主義では次の点で異なる。
有限主義は極限の扱いを認めないが、半直観主義では認める。
例えば、「 n → ∞ 」 で 「 」 の場合、これは 「 0 と等しい」 のだろうか?(極限値 = 0 である)
次の三つの立場がある。
● 有限主義(無限を認めない)… 無限は観念上の産物であり「 0 と等しくはならない」
● 半直観主義(可能無限) … 「 0 と等しくはならない」 が収束する極限値としての 「 0 の使用」 は認める
● カントール系(実無限) … 「 0 と等しい」
「 0 と等しい」 とすると、「 = 0 」 ならば 「1 = 0 × ∞」 であろうし、これは問題になる。
有限主義では、無限を使用できないので収束する極限値は扱えず、解析学(微積分)は様々な面で制約を受ける。
半直観主義では、収束する極限値は近似値にしかならないが、無限に近づくのでその使用は数学の 「厳密性」 を損なわないと考える。よって、解析学でのその扱いについてはほぼ問題ない。
有限の操作の場合、例えばある操作を3回行うと、X0 → X1 →X2 →X3 と最後は静的なものになる。
しかし、無限の操作を行うと、X0 → X1 →X2 → … 最後はなく、操作が動的に続くだけである。
収束する極限値がある場合、その操作は「無限の操作」であるが、極限値自体が 「静的な値」 なので、これを使用することは問題ない。
収束しない無限の場合、「∞」 や 「無限操作を内包するもの(例えば数学的帰納法)」 については 「静的なもの」 にならないのでこの使用は注意しなければならない。
や の無理数については、(極限値として), として用いる場合は問題ないが、小数点展開する場合にはその展開が無限操作になるので注意が必要である。
収束する極限値は、実無限でも可能無限でも(その極限に至る解釈は異なるが)極限値を用いる場合には同じ運用になる。従って、実無限か可能無限か特には意識されていない場合が多い。
しかし、収束しない場合、無限は継続的なものになる。このとき実無限という 「完結する無限」 は問題が発生する。
例えば、
= 1
1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 1
1 に収束するということであるが、これを
(1) 実無限 … 無限に計算し終わった値が 1
(2) 可能無限 … 1 に限りなく無限に近づく
とどちらで解釈しても極限値 (1) を用いる場合には同じである。
しかし、実無限でも可能無限でも収束する極限値の扱いが同じであることは、心理的錯覚を起こさせやすい。
「収束する極限値を用いる場合」 も 「無限操作」 も同じように扱えるのではないかと思わせる効果を生む。
後者の場合、実無限と可能無限は異なり、実無限は問題となる。
§ 無限の有限化
次の2つの命題があるとする。(自然数は 0 ~ とする)
(1) 「自然数の中で、奇数でないものは偶数である」
(2) 「自然数の中で、奇数と偶数は同じ数だけある」
(1) は当然正しい。奇数と偶数の排中律は自然数の中で成り立つ。
では (2) は正しいだろうか?
これは正しくない。何故なら、もし正しいとすると、自然数 (0~) の終わりは奇数になるからである。
何が違うのか?
(1) は自然数の終わりを想定していない。
(2) は自然数の終わりを想定している。
(1) は 「自然数全体」 を括って有限化していない。また奇数も偶数も括って有限化していない。つまり、無限を数えているわけではない。
(2) は 「同じ数」 というところで、有限化している。奇数と偶数も自然数も無限の数あるのに 「ある括り」 により有限化している。
この点を考慮しないといけないのは無限のもつ特性であり、考慮しないと 「有限主義」 にならざるをえない。
(2) の命題において、「奇数と偶数は同じ数だけ-ない」 と仮定して 「矛盾」 を導き、そして 「奇数と偶数は同じ数だけある」 という背理法は成り立たない。
この命題は 「無限の有限化」 を内包する矛盾命題であり、「同じ数だけある」 と 「同じ数だけない」 の排中律は成り立たない。
「自然数」 の数え方というのは自明ではないので 「ある括り」 が要求される。0 から数えても、どこから数えても本来同じでなければならない。無限から数えることはできなく、自然数全体を数えることはできない。
無限(集合)を 「全体を括り」 数えることは 「無限の有限化」 である。
§ ガリレイの例
自然数がある。自然数を2乗すると2乗数である。従って、自然数と2乗数は 「1対1」 の対応付けができる。
そうなると、「自然数全体と2乗数全体は同じ数である」 (A) という命題は正しいだろうか?
2乗数自体も自然数であり自然数の一部である。すると、上記命題 (A) は矛盾となる。
この例も暗黙に 「自然数」 の終わりを指定している時点で矛盾である。これは 「有理数」 でも 「実数」 でも同じである。
「終わり」 を 「どこに揃えるか」 というのは 「自明でない」 (無限だから設定できない)のに 「暗黙」 に 「各々」 に設定が行われている。
§ 1対1
「自然数」 と 「何か」 (偶数、自然数の2乗、有理数など)は 「1対1」 である。と言うとき、その時点で両者の 「ある終わり」 によって比較している。
「1対1」 の比較は有限集合でしか行えず、無限集合には適用できない。
また同様に、無限集合に 「並べ終わる」 という概念は矛盾である。
無限に続く操作の場合、収束する極限値がある場合その値を用いてよい(その値は無限操作ではない)が、ない場合、操作が終わることとしてはいけない。
従って、「排中律」 「背理法」 が問題であるのではなく、「無限の有限化」 (つまり実無限)が問題であり、「無限の有限化」 を伴う 「排中律」 「背理法」 の使用が問題の本質である。
不完全性定理も高階を許す場合、内部に再帰的無限操作を有するものである。その場合に、「排中律」 を用いた命題の体系は成り立たない。 「排中律」 を用いた証明は 「無限操作の有限化」 を内包している。
§ 対角線論法
カントールの対角線論法(詳細は本やサイトを参照)も 0 ~ 1 までの実数を 「全て並べ終えたら」 と仮定して矛盾を導いている。この時点で上記と同じ問題がある。
無限のものを 「全て並べ終える」 ことはできず、それは有限でしか使用できない。この 「仮定」 自体が 「無限の有限化」 であり、それを用いた背理法は使用できない。
§ 数学的帰納法
数学的帰納法は、有限の記述で無限の対象を証明する方法である。
P(n) という命題があるとする。
・P(0) は真である
・P(k) が真であれば、P(k+1) も真である
以上が真であると、n = 0, 1, 2, … と順に全ての自然数 n について P(n) が真であることが証明される。
証明の記述は有限であるが、操作には無限操作が内包されている。
この場合、無限操作は閉じない(終わらない)という特徴がある。
「数学的帰納法は無限を生み出す原理である。数学的帰納法は有限から無限への架け橋であり、数学的帰納法が絶対的に正しい原理であることを証明するには数学的帰納法によらざるをえず、従って数学の無矛盾性は決して証明できるはずがない」 (ポアンカレ)
「操作が継続する」 ということはある操作の 「再帰」 である。P(k) が真ならば、P(k+1) も真という操作は P() の再帰である。
「ある1つの命題」 の記述であっても、無限の操作がそこにはある。
この場合、「命題」 が 「真」 であることを示すには、「全て」 の繰り返される無限操作について 「真」 であることを示さないといけない。数学的帰納法は順番に次々と 「真」 であることを証明する方法である。
では、「偽」 の 「矛盾」 (二重否定)は 「真」 であろうか?それは1操作では成り立っても、無限操作では成り立たない。
有限の操作は一つのまとまった操作として1操作化できる(まとめられる)が、無限の操作はできない、これが不完全性定理のポイントである。
排中律が成り立つとは、全体があり、「真」 でなければ 「偽」 であることである。しかし、無限操作は 「全体」 が見えず、操作がどこまでいっても 「不可視」 の部分がある。「全体」 を括るのは 「無限の有限化」 である。
「数学的帰納法」 を使う命題が正しいことは、数学的帰納法を使い 「n = 0 ~ ∞」 へと確認せざるを得ず、無矛盾性を前提とした背理法の使用はできない。
(高階の)無限操作を内包する命題の 「二重否定(偽の矛盾)」 は必ずしも 「真」 とはいえない。というのがポアンカレの意図である。
従って 「不完全(無矛盾性は証明できない)なのは当然」 であり、不完全性定理はより的確に指摘されていた(といえる)のである。
§「0.999 … = 1」 ?
「…」 の定義は明確には決まっているわけではなく、利用は慣習的であり、何パターンかある。
通常は lim (極限) の意味が含まれることが多い。
例えば、
(1) = 1
(2) 1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 1
数学書では、こう併記されることが多い。
と定義されている。
従って、 = 1
となる。1 は極限値である。
(2) の場合、= であるならば、「…」 は 「lim」 の意味も兼ねることになる。
だから、「0.999 …」 の、この 「…」 を上記と同様に総和 Σ の 「lim」 の意味も兼ねると見る場合、「0.999 … = 1」 ということになる。
しかし、「…」 は単に 「計算の軌跡」 も意味する。
= 1.414213 …
こう記述した場合、右辺は 「10進数で少数展開した場合の計算の軌跡」 である。
何故なら、右辺から左辺に変換できないからである。
1.414213 … =
は書けない。
= 1.414213 … でもあり、「1.414213 …」 は 「計算の軌跡」 と言える。 「…」 以前の数値を伸ばしても同じ問題が発生し、結局 を知らないと10進数に変換できない。
では、「0.999 …」 「0.333 …」 はどうだろうか? 単独でこの数値記号を取り出すとそれ自体を定義しないといけない。この記述が出てきた経緯があればそれにより解答が与えられる。
一般に、左辺から右辺へと計算のステップは進むが、「=」 の左辺と右辺は同値だろうか?
0.999 … この少数展開部分は実無限なのか可能無限なのか?
数値と数値、記号と記号の間に 「…」 が使用されることもある。この場合の 「…」 は 「操作の継続」 のみ意味する。
従って、「…」 は慣習的に状況に応じ誤解を与えないように通常使用すればいい、となる。
ある体系のある定義の中での扱いとも言える。
数学は記号を用いたシステムなので、本来記号の意味するところは定義されている。しかし 「…」 は文脈上矛盾がなければ(意味がわかれば)便利に利用できる記号である。
だから単独で取り出すと、どういう状況で普段使用されているか帰納的に調査しないといけない。これは演繹的な数学の問題からは外れる、とも言える。
では、定義を明確に記号を分ければいい、とすると、この記号の便利さが失われる、とも言える。
これは数学的問いなのか哲学的問いなのか・・・
§ 数学大系
数学の大系は一元化だけでなく、多元化、多階層化したものも考えられる。
・ 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 は相互に利用、干渉し合わず、相互矛盾があってもかまわない
・ 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 から見て、「基本クラス」 には矛盾があってはいけない
・ 「基本クラス」 からは 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 には干渉しない。
単純モデルであるが、汎用的に拡張可能である。
例えば、基本クラスの基礎部分に数理論理学がある。「基本クラス」 に構成的な体系、「拡張クラス」 に抽象的、非構成的な体系などである。ただこれは1例である。
§ ある地点以降
収束する極限において、極限値を用いる場合は実無限も可能無限も同じである。従って、実無限を可能無限に変更しても何ら数学的に変更はない。
収束しない無限、無限操作において 「無限の有限化」 (実無限)は矛盾である。
従って、実無限を取り除くことで実害はなく、矛盾だけを取り除くことができる。(現実はどうあれ、理論上はそうなる)
解析学などで収束する極限を用いている場合はほとんど問題は生じなく、問題があるとするとカントール系のある部分と思われる。
直接の問題は 「無限の有限化」 (実無限)を伴う 「排中律」 「背理法」 の使用であり、それ以外は根本問題ではない。従って、(微妙な部分はあれ)多くの背理法の使用は問題ないと思われる。
数学の主義的な意見の相違は次の段階である。
(ハイティング系の)直観主義論理は排中律排除が強調されているように思われる。 「直観主義=排中律排除」 というイメージがあれば誤解を生みかねない。 「排中律は必ずしも正しいとはいえない」 と 「排中律排除」 は異なる。
一般にパラドックス、矛盾を解決する方法としては2通り考えられる。
一つは、演繹的解決であり、問題を起こす本質から解いていく方法である。これは難解になるケースがある。
もう一つは、帰納的解決であり、パラドックスが生じる例を抽出し、その例を分類し共通する構造を探し出す。それを個々に解決する方法である。
演繹的、帰納的解決の両者が一致したとき問題はほぼなくなる。それはプログラミングに似ている。
以上の論点は、ポアンカレが指摘している段階であり、ポアンカレは簡易な解決案を示している。嘘つきのパラドックス、不完全性定理、チューリングの停止性問題、集合論のパラドックス、対角線論法、一連の平行するパラドックス問題は基本的に同じ構造である。
ブラウワーはそれを引き継いだ。はずだったが・・・(成功したのか、しなかったのか、それとも狭間の問題になっているのか・・・)
無限とは有限でないことであり、無限と有限は対立概念である。
「数学の無限」 はある操作が継続するということであり、その 「操作内容」 は知られている。
無限には2種類の無限が存在する。(振動などはここでは除く)
収束する極限値を 「もつ」 ものと 「もたない(発散、無限操作)」 ものである。
有限主義と半直観主義では次の点で異なる。
有限主義は極限の扱いを認めないが、半直観主義では認める。
収束する極限値 | 収束しない無限操作 | |
有限主義 | × | × |
半直観主義 | ○ | 可能無限 |
カントール系 | ○ | 実無限 |
例えば、「 n → ∞ 」 で 「 」 の場合、これは 「 0 と等しい」 のだろうか?(極限値 = 0 である)
次の三つの立場がある。
● 有限主義(無限を認めない)… 無限は観念上の産物であり「 0 と等しくはならない」
● 半直観主義(可能無限) … 「 0 と等しくはならない」 が収束する極限値としての 「 0 の使用」 は認める
● カントール系(実無限) … 「 0 と等しい」
「 0 と等しい」 とすると、「 = 0 」 ならば 「1 = 0 × ∞」 であろうし、これは問題になる。
有限主義では、無限を使用できないので収束する極限値は扱えず、解析学(微積分)は様々な面で制約を受ける。
半直観主義では、収束する極限値は近似値にしかならないが、無限に近づくのでその使用は数学の 「厳密性」 を損なわないと考える。よって、解析学でのその扱いについてはほぼ問題ない。
有限の操作の場合、例えばある操作を3回行うと、X0 → X1 →X2 →X3 と最後は静的なものになる。
しかし、無限の操作を行うと、X0 → X1 →X2 → … 最後はなく、操作が動的に続くだけである。
収束する極限値がある場合、その操作は「無限の操作」であるが、極限値自体が 「静的な値」 なので、これを使用することは問題ない。
収束しない無限の場合、「∞」 や 「無限操作を内包するもの(例えば数学的帰納法)」 については 「静的なもの」 にならないのでこの使用は注意しなければならない。
や の無理数については、(極限値として), として用いる場合は問題ないが、小数点展開する場合にはその展開が無限操作になるので注意が必要である。
収束する極限値は、実無限でも可能無限でも(その極限に至る解釈は異なるが)極限値を用いる場合には同じ運用になる。従って、実無限か可能無限か特には意識されていない場合が多い。
しかし、収束しない場合、無限は継続的なものになる。このとき実無限という 「完結する無限」 は問題が発生する。
例えば、
= 1
1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 1
1 に収束するということであるが、これを
(1) 実無限 … 無限に計算し終わった値が 1
(2) 可能無限 … 1 に限りなく無限に近づく
とどちらで解釈しても極限値 (1) を用いる場合には同じである。
しかし、実無限でも可能無限でも収束する極限値の扱いが同じであることは、心理的錯覚を起こさせやすい。
「収束する極限値を用いる場合」 も 「無限操作」 も同じように扱えるのではないかと思わせる効果を生む。
後者の場合、実無限と可能無限は異なり、実無限は問題となる。
§ 無限の有限化
次の2つの命題があるとする。(自然数は 0 ~ とする)
(1) 「自然数の中で、奇数でないものは偶数である」
(2) 「自然数の中で、奇数と偶数は同じ数だけある」
(1) は当然正しい。奇数と偶数の排中律は自然数の中で成り立つ。
では (2) は正しいだろうか?
これは正しくない。何故なら、もし正しいとすると、自然数 (0~) の終わりは奇数になるからである。
何が違うのか?
(1) は自然数の終わりを想定していない。
(2) は自然数の終わりを想定している。
(1) は 「自然数全体」 を括って有限化していない。また奇数も偶数も括って有限化していない。つまり、無限を数えているわけではない。
(2) は 「同じ数」 というところで、有限化している。奇数と偶数も自然数も無限の数あるのに 「ある括り」 により有限化している。
この点を考慮しないといけないのは無限のもつ特性であり、考慮しないと 「有限主義」 にならざるをえない。
(2) の命題において、「奇数と偶数は同じ数だけ-ない」 と仮定して 「矛盾」 を導き、そして 「奇数と偶数は同じ数だけある」 という背理法は成り立たない。
この命題は 「無限の有限化」 を内包する矛盾命題であり、「同じ数だけある」 と 「同じ数だけない」 の排中律は成り立たない。
「自然数」 の数え方というのは自明ではないので 「ある括り」 が要求される。0 から数えても、どこから数えても本来同じでなければならない。無限から数えることはできなく、自然数全体を数えることはできない。
無限(集合)を 「全体を括り」 数えることは 「無限の有限化」 である。
§ ガリレイの例
自然数がある。自然数を2乗すると2乗数である。従って、自然数と2乗数は 「1対1」 の対応付けができる。
そうなると、「自然数全体と2乗数全体は同じ数である」 (A) という命題は正しいだろうか?
2乗数自体も自然数であり自然数の一部である。すると、上記命題 (A) は矛盾となる。
この例も暗黙に 「自然数」 の終わりを指定している時点で矛盾である。これは 「有理数」 でも 「実数」 でも同じである。
「終わり」 を 「どこに揃えるか」 というのは 「自明でない」 (無限だから設定できない)のに 「暗黙」 に 「各々」 に設定が行われている。
§ 1対1
「自然数」 と 「何か」 (偶数、自然数の2乗、有理数など)は 「1対1」 である。と言うとき、その時点で両者の 「ある終わり」 によって比較している。
「1対1」 の比較は有限集合でしか行えず、無限集合には適用できない。
また同様に、無限集合に 「並べ終わる」 という概念は矛盾である。
無限に続く操作の場合、収束する極限値がある場合その値を用いてよい(その値は無限操作ではない)が、ない場合、操作が終わることとしてはいけない。
従って、「排中律」 「背理法」 が問題であるのではなく、「無限の有限化」 (つまり実無限)が問題であり、「無限の有限化」 を伴う 「排中律」 「背理法」 の使用が問題の本質である。
不完全性定理も高階を許す場合、内部に再帰的無限操作を有するものである。その場合に、「排中律」 を用いた命題の体系は成り立たない。 「排中律」 を用いた証明は 「無限操作の有限化」 を内包している。
§ 対角線論法
カントールの対角線論法(詳細は本やサイトを参照)も 0 ~ 1 までの実数を 「全て並べ終えたら」 と仮定して矛盾を導いている。この時点で上記と同じ問題がある。
無限のものを 「全て並べ終える」 ことはできず、それは有限でしか使用できない。この 「仮定」 自体が 「無限の有限化」 であり、それを用いた背理法は使用できない。
§ 数学的帰納法
数学的帰納法は、有限の記述で無限の対象を証明する方法である。
P(n) という命題があるとする。
・P(0) は真である
・P(k) が真であれば、P(k+1) も真である
以上が真であると、n = 0, 1, 2, … と順に全ての自然数 n について P(n) が真であることが証明される。
証明の記述は有限であるが、操作には無限操作が内包されている。
この場合、無限操作は閉じない(終わらない)という特徴がある。
「数学的帰納法は無限を生み出す原理である。数学的帰納法は有限から無限への架け橋であり、数学的帰納法が絶対的に正しい原理であることを証明するには数学的帰納法によらざるをえず、従って数学の無矛盾性は決して証明できるはずがない」 (ポアンカレ)
「操作が継続する」 ということはある操作の 「再帰」 である。P(k) が真ならば、P(k+1) も真という操作は P() の再帰である。
「ある1つの命題」 の記述であっても、無限の操作がそこにはある。
この場合、「命題」 が 「真」 であることを示すには、「全て」 の繰り返される無限操作について 「真」 であることを示さないといけない。数学的帰納法は順番に次々と 「真」 であることを証明する方法である。
では、「偽」 の 「矛盾」 (二重否定)は 「真」 であろうか?それは1操作では成り立っても、無限操作では成り立たない。
有限の操作は一つのまとまった操作として1操作化できる(まとめられる)が、無限の操作はできない、これが不完全性定理のポイントである。
排中律が成り立つとは、全体があり、「真」 でなければ 「偽」 であることである。しかし、無限操作は 「全体」 が見えず、操作がどこまでいっても 「不可視」 の部分がある。「全体」 を括るのは 「無限の有限化」 である。
「数学的帰納法」 を使う命題が正しいことは、数学的帰納法を使い 「n = 0 ~ ∞」 へと確認せざるを得ず、無矛盾性を前提とした背理法の使用はできない。
(高階の)無限操作を内包する命題の 「二重否定(偽の矛盾)」 は必ずしも 「真」 とはいえない。というのがポアンカレの意図である。
従って 「不完全(無矛盾性は証明できない)なのは当然」 であり、不完全性定理はより的確に指摘されていた(といえる)のである。
§「0.999 … = 1」 ?
「…」 の定義は明確には決まっているわけではなく、利用は慣習的であり、何パターンかある。
通常は lim (極限) の意味が含まれることが多い。
例えば、
(1) = 1
(2) 1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 1
数学書では、こう併記されることが多い。
と定義されている。
従って、 = 1
となる。1 は極限値である。
(2) の場合、= であるならば、「…」 は 「lim」 の意味も兼ねることになる。
だから、「0.999 …」 の、この 「…」 を上記と同様に総和 Σ の 「lim」 の意味も兼ねると見る場合、「0.999 … = 1」 ということになる。
しかし、「…」 は単に 「計算の軌跡」 も意味する。
= 1.414213 …
こう記述した場合、右辺は 「10進数で少数展開した場合の計算の軌跡」 である。
何故なら、右辺から左辺に変換できないからである。
1.414213 … =
は書けない。
= 1.414213 … でもあり、「1.414213 …」 は 「計算の軌跡」 と言える。 「…」 以前の数値を伸ばしても同じ問題が発生し、結局 を知らないと10進数に変換できない。
では、「0.999 …」 「0.333 …」 はどうだろうか? 単独でこの数値記号を取り出すとそれ自体を定義しないといけない。この記述が出てきた経緯があればそれにより解答が与えられる。
一般に、左辺から右辺へと計算のステップは進むが、「=」 の左辺と右辺は同値だろうか?
0.999 … この少数展開部分は実無限なのか可能無限なのか?
数値と数値、記号と記号の間に 「…」 が使用されることもある。この場合の 「…」 は 「操作の継続」 のみ意味する。
従って、「…」 は慣習的に状況に応じ誤解を与えないように通常使用すればいい、となる。
ある体系のある定義の中での扱いとも言える。
数学は記号を用いたシステムなので、本来記号の意味するところは定義されている。しかし 「…」 は文脈上矛盾がなければ(意味がわかれば)便利に利用できる記号である。
だから単独で取り出すと、どういう状況で普段使用されているか帰納的に調査しないといけない。これは演繹的な数学の問題からは外れる、とも言える。
では、定義を明確に記号を分ければいい、とすると、この記号の便利さが失われる、とも言える。
これは数学的問いなのか哲学的問いなのか・・・
§ 数学大系
数学の大系は一元化だけでなく、多元化、多階層化したものも考えられる。
・ 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 は相互に利用、干渉し合わず、相互矛盾があってもかまわない
・ 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 から見て、「基本クラス」 には矛盾があってはいけない
・ 「基本クラス」 からは 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 には干渉しない。
単純モデルであるが、汎用的に拡張可能である。
例えば、基本クラスの基礎部分に数理論理学がある。「基本クラス」 に構成的な体系、「拡張クラス」 に抽象的、非構成的な体系などである。ただこれは1例である。
§ ある地点以降
収束する極限において、極限値を用いる場合は実無限も可能無限も同じである。従って、実無限を可能無限に変更しても何ら数学的に変更はない。
収束しない無限、無限操作において 「無限の有限化」 (実無限)は矛盾である。
従って、実無限を取り除くことで実害はなく、矛盾だけを取り除くことができる。(現実はどうあれ、理論上はそうなる)
解析学などで収束する極限を用いている場合はほとんど問題は生じなく、問題があるとするとカントール系のある部分と思われる。
直接の問題は 「無限の有限化」 (実無限)を伴う 「排中律」 「背理法」 の使用であり、それ以外は根本問題ではない。従って、(微妙な部分はあれ)多くの背理法の使用は問題ないと思われる。
数学の主義的な意見の相違は次の段階である。
(ハイティング系の)直観主義論理は排中律排除が強調されているように思われる。 「直観主義=排中律排除」 というイメージがあれば誤解を生みかねない。 「排中律は必ずしも正しいとはいえない」 と 「排中律排除」 は異なる。
一般にパラドックス、矛盾を解決する方法としては2通り考えられる。
一つは、演繹的解決であり、問題を起こす本質から解いていく方法である。これは難解になるケースがある。
もう一つは、帰納的解決であり、パラドックスが生じる例を抽出し、その例を分類し共通する構造を探し出す。それを個々に解決する方法である。
演繹的、帰納的解決の両者が一致したとき問題はほぼなくなる。それはプログラミングに似ている。
以上の論点は、ポアンカレが指摘している段階であり、ポアンカレは簡易な解決案を示している。嘘つきのパラドックス、不完全性定理、チューリングの停止性問題、集合論のパラドックス、対角線論法、一連の平行するパラドックス問題は基本的に同じ構造である。
ブラウワーはそれを引き継いだ。はずだったが・・・(成功したのか、しなかったのか、それとも狭間の問題になっているのか・・・)
> √2や π の無理数については、(極限値として), として用いる
>1.414213 … = √2とは書けない
アキレスと亀のパラドクスは、以前私は極限値の問題として解釈しました。アキレスが亀に追いつく地点までの距離を無限に分割することによって、アキレスは永遠に亀に追いつくことができないと、ゼノンは言った訳でしょうが、極限値の概念があれば解決できます。追いつくまでの距離を細分化してゆくと、極限値では零になります。零の地点が、アキレスが亀を追い越す地点となります。極限値の概念がないと、永遠に計算し続けていて、限りなく零に近い距離の分だけ、亀がアキレスの前にいることになります。
by アヨアン・イゴカー (2008-11-23 22:56)
そうですね。アキレスと亀は数学、理論物理を用いると簡単に解けるし、そういう解答はいくつもあったと思います。グラフを書けば一目瞭然です。
では、何故これがパラドックスに見えるのか、パラドックスではないけどパラドックスに見える原因を説明するということで、方法はいくつかあると思います。
by YagiYuki (2008-11-27 07:36)
http://q-mtrnn.idol.haya.mobi/q-mtrnn/
俺のミニチ●コでも、ここなら余裕だったぜ!!
なんか知らんけど、カワイィ=とか言われて包 茎にめちゃ食いつかれたし(笑)
いっぱいペロペロしてもらって、7万ゲットっす!!v( ̄∀ ̄)v
by ボボボーボ (2011-08-13 22:49)
始めて即日で7万ゲットォォォォ!!!!
http://ez30j73.experia.varginia-sex.info/ez30j73/
ていうか俺、女にお任せして出して寝てただけだぜ?www
ぶっちゃけ簡単すぎんだろこれ!wwwww
by しげしげ (2011-08-17 08:11)
俺も最初は信じられなかったんだけどね。
百聞は一見にしかず
http://t6waegq.maji.haya.mobi/t6waegq/
by まじすか (2011-09-03 21:02)