無限 (2/2) [数学系]
無限とは有限でないことであり、無限と有限は対立概念である。
「数学の無限」 はある操作が継続するということであり、その 「操作内容」 は知られている。
無限には2種類の無限が存在する。(振動などはここでは除く)
収束する極限値を 「もつ」 ものと 「もたない(発散、無限操作)」 ものである。
有限主義と半直観主義では次の点で異なる。
有限主義は極限の扱いを認めないが、半直観主義では認める。
収束する極限値 | 収束しない無限操作 | |
有限主義 | × | × |
半直観主義 | ○ | 可能無限 |
カントール系 | ○ | 実無限 |
例えば、「 n → ∞ 」 で 「 」 の場合、これは 「 0 と等しい」 のだろうか?(極限値 = 0 である)
次の三つの立場がある。
● 有限主義(無限を認めない)… 無限は観念上の産物であり「 0 と等しくはならない」
● 半直観主義(可能無限) … 「 0 と等しくはならない」 が収束する極限値としての 「 0 の使用」 は認める
● カントール系(実無限) … 「 0 と等しい」
「 0 と等しい」 とすると、「 = 0 」 ならば 「1 = 0 × ∞」 であろうし、これは問題になる。
有限主義では、無限を使用できないので収束する極限値は扱えず、解析学(微積分)は様々な面で制約を受ける。
半直観主義では、収束する極限値は近似値にしかならないが、無限に近づくのでその使用は数学の 「厳密性」 を損なわないと考える。よって、解析学でのその扱いについてはほぼ問題ない。
有限の操作の場合、例えばある操作を3回行うと、X0 → X1 →X2 →X3 と最後は静的なものになる。
しかし、無限の操作を行うと、X0 → X1 →X2 → … 最後はなく、操作が動的に続くだけである。
収束する極限値がある場合、その操作は「無限の操作」であるが、極限値自体が 「静的な値」 なので、これを使用することは問題ない。
収束しない無限の場合、「∞」 や 「無限操作を内包するもの(例えば数学的帰納法)」 については 「静的なもの」 にならないのでこの使用は注意しなければならない。
や の無理数については、(極限値として), として用いる場合は問題ないが、小数点展開する場合にはその展開が無限操作になるので注意が必要である。
収束する極限値は、実無限でも可能無限でも(その極限に至る解釈は異なるが)極限値を用いる場合には同じ運用になる。従って、実無限か可能無限か特には意識されていない場合が多い。
しかし、収束しない場合、無限は継続的なものになる。このとき実無限という 「完結する無限」 は問題が発生する。
例えば、
= 1
1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 1
1 に収束するということであるが、これを
(1) 実無限 … 無限に計算し終わった値が 1
(2) 可能無限 … 1 に限りなく無限に近づく
とどちらで解釈しても極限値 (1) を用いる場合には同じである。
しかし、実無限でも可能無限でも収束する極限値の扱いが同じであることは、心理的錯覚を起こさせやすい。
「収束する極限値を用いる場合」 も 「無限操作」 も同じように扱えるのではないかと思わせる効果を生む。
後者の場合、実無限と可能無限は異なり、実無限は問題となる。
§ 無限の有限化
次の2つの命題があるとする。(自然数は 0 ~ とする)
(1) 「自然数の中で、奇数でないものは偶数である」
(2) 「自然数の中で、奇数と偶数は同じ数だけある」
(1) は当然正しい。奇数と偶数の排中律は自然数の中で成り立つ。
では (2) は正しいだろうか?
これは正しくない。何故なら、もし正しいとすると、自然数 (0~) の終わりは奇数になるからである。
何が違うのか?
(1) は自然数の終わりを想定していない。
(2) は自然数の終わりを想定している。
(1) は 「自然数全体」 を括って有限化していない。また奇数も偶数も括って有限化していない。つまり、無限を数えているわけではない。
(2) は 「同じ数」 というところで、有限化している。奇数と偶数も自然数も無限の数あるのに 「ある括り」 により有限化している。
この点を考慮しないといけないのは無限のもつ特性であり、考慮しないと 「有限主義」 にならざるをえない。
(2) の命題において、「奇数と偶数は同じ数だけ-ない」 と仮定して 「矛盾」 を導き、そして 「奇数と偶数は同じ数だけある」 という背理法は成り立たない。
この命題は 「無限の有限化」 を内包する矛盾命題であり、「同じ数だけある」 と 「同じ数だけない」 の排中律は成り立たない。
「自然数」 の数え方というのは自明ではないので 「ある括り」 が要求される。0 から数えても、どこから数えても本来同じでなければならない。無限から数えることはできなく、自然数全体を数えることはできない。
無限(集合)を 「全体を括り」 数えることは 「無限の有限化」 である。
§ ガリレイの例
自然数がある。自然数を2乗すると2乗数である。従って、自然数と2乗数は 「1対1」 の対応付けができる。
そうなると、「自然数全体と2乗数全体は同じ数である」 (A) という命題は正しいだろうか?
2乗数自体も自然数であり自然数の一部である。すると、上記命題 (A) は矛盾となる。
この例も暗黙に 「自然数」 の終わりを指定している時点で矛盾である。これは 「有理数」 でも 「実数」 でも同じである。
「終わり」 を 「どこに揃えるか」 というのは 「自明でない」 (無限だから設定できない)のに 「暗黙」 に 「各々」 に設定が行われている。
§ 1対1
「自然数」 と 「何か」 (偶数、自然数の2乗、有理数など)は 「1対1」 である。と言うとき、その時点で両者の 「ある終わり」 によって比較している。
「1対1」 の比較は有限集合でしか行えず、無限集合には適用できない。
また同様に、無限集合に 「並べ終わる」 という概念は矛盾である。
無限に続く操作の場合、収束する極限値がある場合その値を用いてよい(その値は無限操作ではない)が、ない場合、操作が終わることとしてはいけない。
従って、「排中律」 「背理法」 が問題であるのではなく、「無限の有限化」 (つまり実無限)が問題であり、「無限の有限化」 を伴う 「排中律」 「背理法」 の使用が問題の本質である。
不完全性定理も高階を許す場合、内部に再帰的無限操作を有するものである。その場合に、「排中律」 を用いた命題の体系は成り立たない。 「排中律」 を用いた証明は 「無限操作の有限化」 を内包している。
§ 対角線論法
カントールの対角線論法(詳細は本やサイトを参照)も 0 ~ 1 までの実数を 「全て並べ終えたら」 と仮定して矛盾を導いている。この時点で上記と同じ問題がある。
無限のものを 「全て並べ終える」 ことはできず、それは有限でしか使用できない。この 「仮定」 自体が 「無限の有限化」 であり、それを用いた背理法は使用できない。
§ 数学的帰納法
数学的帰納法は、有限の記述で無限の対象を証明する方法である。
P(n) という命題があるとする。
・P(0) は真である
・P(k) が真であれば、P(k+1) も真である
以上が真であると、n = 0, 1, 2, … と順に全ての自然数 n について P(n) が真であることが証明される。
証明の記述は有限であるが、操作には無限操作が内包されている。
この場合、無限操作は閉じない(終わらない)という特徴がある。
「数学的帰納法は無限を生み出す原理である。数学的帰納法は有限から無限への架け橋であり、数学的帰納法が絶対的に正しい原理であることを証明するには数学的帰納法によらざるをえず、従って数学の無矛盾性は決して証明できるはずがない」 (ポアンカレ)
「操作が継続する」 ということはある操作の 「再帰」 である。P(k) が真ならば、P(k+1) も真という操作は P() の再帰である。
「ある1つの命題」 の記述であっても、無限の操作がそこにはある。
この場合、「命題」 が 「真」 であることを示すには、「全て」 の繰り返される無限操作について 「真」 であることを示さないといけない。数学的帰納法は順番に次々と 「真」 であることを証明する方法である。
では、「偽」 の 「矛盾」 (二重否定)は 「真」 であろうか?それは1操作では成り立っても、無限操作では成り立たない。
有限の操作は一つのまとまった操作として1操作化できる(まとめられる)が、無限の操作はできない、これが不完全性定理のポイントである。
排中律が成り立つとは、全体があり、「真」 でなければ 「偽」 であることである。しかし、無限操作は 「全体」 が見えず、操作がどこまでいっても 「不可視」 の部分がある。「全体」 を括るのは 「無限の有限化」 である。
「数学的帰納法」 を使う命題が正しいことは、数学的帰納法を使い 「n = 0 ~ ∞」 へと確認せざるを得ず、無矛盾性を前提とした背理法の使用はできない。
(高階の)無限操作を内包する命題の 「二重否定(偽の矛盾)」 は必ずしも 「真」 とはいえない。というのがポアンカレの意図である。
従って 「不完全(無矛盾性は証明できない)なのは当然」 であり、不完全性定理はより的確に指摘されていた(といえる)のである。
§「0.999 … = 1」 ?
「…」 の定義は明確には決まっているわけではなく、利用は慣習的であり、何パターンかある。
通常は lim (極限) の意味が含まれることが多い。
例えば、
(1) = 1
(2) 1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 1
数学書では、こう併記されることが多い。
と定義されている。
従って、 = 1
となる。1 は極限値である。
(2) の場合、= であるならば、「…」 は 「lim」 の意味も兼ねることになる。
だから、「0.999 …」 の、この 「…」 を上記と同様に総和 Σ の 「lim」 の意味も兼ねると見る場合、「0.999 … = 1」 ということになる。
しかし、「…」 は単に 「計算の軌跡」 も意味する。
= 1.414213 …
こう記述した場合、右辺は 「10進数で少数展開した場合の計算の軌跡」 である。
何故なら、右辺から左辺に変換できないからである。
1.414213 … =
は書けない。
= 1.414213 … でもあり、「1.414213 …」 は 「計算の軌跡」 と言える。 「…」 以前の数値を伸ばしても同じ問題が発生し、結局 を知らないと10進数に変換できない。
では、「0.999 …」 「0.333 …」 はどうだろうか? 単独でこの数値記号を取り出すとそれ自体を定義しないといけない。この記述が出てきた経緯があればそれにより解答が与えられる。
一般に、左辺から右辺へと計算のステップは進むが、「=」 の左辺と右辺は同値だろうか?
0.999 … この少数展開部分は実無限なのか可能無限なのか?
数値と数値、記号と記号の間に 「…」 が使用されることもある。この場合の 「…」 は 「操作の継続」 のみ意味する。
従って、「…」 は慣習的に状況に応じ誤解を与えないように通常使用すればいい、となる。
ある体系のある定義の中での扱いとも言える。
数学は記号を用いたシステムなので、本来記号の意味するところは定義されている。しかし 「…」 は文脈上矛盾がなければ(意味がわかれば)便利に利用できる記号である。
だから単独で取り出すと、どういう状況で普段使用されているか帰納的に調査しないといけない。これは演繹的な数学の問題からは外れる、とも言える。
では、定義を明確に記号を分ければいい、とすると、この記号の便利さが失われる、とも言える。
これは数学的問いなのか哲学的問いなのか・・・
§ 数学大系
数学の大系は一元化だけでなく、多元化、多階層化したものも考えられる。
・ 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 は相互に利用、干渉し合わず、相互矛盾があってもかまわない
・ 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 から見て、「基本クラス」 には矛盾があってはいけない
・ 「基本クラス」 からは 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 には干渉しない。
単純モデルであるが、汎用的に拡張可能である。
例えば、基本クラスの基礎部分に数理論理学がある。「基本クラス」 に構成的な体系、「拡張クラス」 に抽象的、非構成的な体系などである。ただこれは1例である。
§ ある地点以降
収束する極限において、極限値を用いる場合は実無限も可能無限も同じである。従って、実無限を可能無限に変更しても何ら数学的に変更はない。
収束しない無限、無限操作において 「無限の有限化」 (実無限)は矛盾である。
従って、実無限を取り除くことで実害はなく、矛盾だけを取り除くことができる。(現実はどうあれ、理論上はそうなる)
解析学などで収束する極限を用いている場合はほとんど問題は生じなく、問題があるとするとカントール系のある部分と思われる。
直接の問題は 「無限の有限化」 (実無限)を伴う 「排中律」 「背理法」 の使用であり、それ以外は根本問題ではない。従って、(微妙な部分はあれ)多くの背理法の使用は問題ないと思われる。
数学の主義的な意見の相違は次の段階である。
(ハイティング系の)直観主義論理は排中律排除が強調されているように思われる。 「直観主義=排中律排除」 というイメージがあれば誤解を生みかねない。 「排中律は必ずしも正しいとはいえない」 と 「排中律排除」 は異なる。
一般にパラドックス、矛盾を解決する方法としては2通り考えられる。
一つは、演繹的解決であり、問題を起こす本質から解いていく方法である。これは難解になるケースがある。
もう一つは、帰納的解決であり、パラドックスが生じる例を抽出し、その例を分類し共通する構造を探し出す。それを個々に解決する方法である。
演繹的、帰納的解決の両者が一致したとき問題はほぼなくなる。それはプログラミングに似ている。
以上の論点は、ポアンカレが指摘している段階であり、ポアンカレは簡易な解決案を示している。嘘つきのパラドックス、不完全性定理、チューリングの停止性問題、集合論のパラドックス、対角線論法、一連の平行するパラドックス問題は基本的に同じ構造である。
ブラウワーはそれを引き継いだ。はずだったが・・・(成功したのか、しなかったのか、それとも狭間の問題になっているのか・・・)
無限 (1/2) [数学系]
以前考慮できなかった部分について補っていく。若干史実的に合わない部分もあるかもしれないが、明瞭さを優先する。
数学の哲学に関係する部分はポアンカレがほぼ基点になっている。
ブラウワー(以降)の直観主義はポアンカレ(半直観主義)を継承した。しかし、直観主義を現実に適用すると狭い数学にしかならず、制限されるものが多くなる。
ということでワイルなど(半直観主義者)はブラウワー直観主義を少し留保した。
§ 点と線
「線は点からなるのか?」
これについては2つの定義が存在する。
(1) 線は点の集まりではない
「点とは部分のないものである。線とは幅のない長さである。面とは長さと幅のみを持つものである」 (ユークリッド)
この定義では、点は部分をもたないので、点を集めても線にはならない。
点は 0 次元、線は 1 次元、面は 2 次元と考えられる。
この定義を拡張するとポアンカレの多次元に関する定義になる。
● ある連続体の切断面(切り口)が 0 次元のとき、その連続体は 1 次元である
● 切断面が 1 次元であるとき、連続体は 2 次元である
● 以下、切断面が n 次元であるとき、連続体は n+1 次元である
これはユークリッドの定義を多次元まで拡張し柔軟にしたものである。
例えば、直線(1次元)の切断面は点(0次元)であり、面(2次元)の切断面は直線(1次元)であり、立方体(3次元)の切断面は面(2次元)である。
4 次元の切断面は 3 次元である。直観的にはわかりにくいが、抽象的には理解できる。以下、無限次元に拡張できる。
「線は点の集まりでない」 とすると、「線分1」 の中で点は 「線分0」 であり、 0 をいくらたしても(無限にたしても) 1 にならない。
この定義では点は線の中で 「位置のみ」 を指示する。
(2) 線は点の集まりである
「点とは、その部分がないものではなく、またその部分が考えられないものでもなく、その延長が 0 というものである。あるいはその部分が離れていない、その量が考察不能、指示不可能なものである」 (ライプニッツ)
ユークリッドの定義とライプニッツの定義は相反する。
「量」 という概念が、算術と幾何学の融合から生まれ、特に解析学(微積分)において発展する。 「無限小」 という概念が解析学に便利さをもたらす。
ただ、この定義は構成的に不明瞭な部分を抱え込むことになり、ライプニッツの当時から哲学者や数学者によって議論になる。
例えば、「線分1」 の中で点は部分となり、点をたすと 「線分1」 になる。従って点は 「線分0」 ではなく 「線分無限小」 とでもいうべきものになる。
しかし、「無限小」 をたすと 「1」 になるとすると、それは 「無限回」 たすのであるが、
「無限小」 × 「無限大」 = 1
× ∞ = 1
とでもいうものになるが、これは変である。 ∞ は 「値」 ではなく、比較演算できないからである。
「無限小」 とは何か? 「無限に小さくなるもの」 は静的な 「値」 ではない。
従って、この考えは直観的、構成的な考えではなく、抽象的な定義である。
しかしこれをこの部分で問題視するのは早く、「無限小」 と 「無限大」 は本質的に異なる。
解析学は、主にケプラー、ニュートン、ライプニッツ、オイラー、コーシー、ワイエルシュトラス、デーデキントなどにより発展する。
§ 有限主義
それに異議を唱えたのがクロネッカーである。
「数学の算術化。整数の上に有限回の演算のみを認める数学のプログラム。 という数など観念の中でしか存在しなく、数学は形而上学ではない」 (クロネッカー)
「哲学的な理由から、整数又はせいぜい有理数だけの存在は認めるが、無理数を完全に追放したいと思っていたクロネッカーにとって、ワイエルシュトラス流の関数論は基礎づけが不十分であると考えた」 (クライン)
クロネッカーの哲学は 「有限主義」 に近い。 (ただ数学上は必ずしも 「有限主義」 ではなかったようである)
例えば、コンピュータにおいてデータは on か off かのビットで扱われ全て 2 進数である。これは自然数から構成されるものしか認めなかったクロネッカーの立場に近い。 2 進法も 10 進法も桁の繰り上がりの値が違うだけで構造は同じのものである。
有理数は のように 0.333… と循環小数になるものもあるが、これはコンピュータでも分母と分子の 2 データもてばいいので正確に値をもつことはできる。
しかし、無理数のデータは正確に値をもつことはできない。もし、計算で求められるとしても無限の操作が必要である。クロネッカーは 「永遠に続く操作概念」 などというのは観念上でしか存在しないではないかと疑い、「無限操作」 によって成り立つものを追放しようとした。
但し、一つの立場として有限主義は考えられるが、それで一元化しようとするとかなり狭い数学にしかならない。一元化は極端で同意は難しいが、多元的な数学の一端としては成り立つ。
実際、計算機科学の基礎に近く、コンピュータは有限主義である。時間は有限であり、データ領域も有限である。どれほど高速にして、領域を増やしてもそうである。
無限はプログラムでは永遠ループ ( C言語では while(1) ) となる。しかし、時間が有限なので本当はコンピュータ上でも有限ループである。
(時間は有限であり、人の心理的時間と共にある。しかし、無限可能性を未来にもち、これは数理哲学のテーマとなりうる。数学の操作、ステップは時間と無関係なものだろうか、無限はどうか?)
実数は解析学上 「数」 的なものではなく 「量」 的なものとして定義される。それにより 「実数の連続性」 という公理、概念を満たす。
「量」 的なものは、極限や無限小という無限概念で成り立つ。
§ 関数
次の関数があるとする。
(A) y = 2x
これを直交座標系で示すと
(B)
このような直線が描かれる。
(A) も (B) も x, y は -∞ ~ +∞ の値をもつことができる。
では、(A) と (B) は等しいと言えるのか?
変な疑問かもしれないが、次のように言葉を変えてみる。
(B) の直線は 「部分をもたない点の集合」 だろうか、それとも 「連続線」 だろうか?
「点(0次元)の集まり」 だろうか 「線(1次元)」 だろうか?
§ 実数
実数は 「実数の完備化」 という手続きで 「直線上での点の位置が各実数に対応」 する。
「完備化」 という手続きは位相空間の完備化という手続きに平行する。極限値の集合により実数は完備され(極限値が切れずに繋がる)、「実数の連結性」 として説明される。
(Wikipedia 実数、極限、コーシー列、完備距離空間、連続(数学)などを参照)
直線の位置は実数(の極限)で完備されるが、この概念は難しいので、数学的にはほぼ同値の 「実数の連続性」 に焦点を当てる。
「実数の連続性」 というと、ある実数の「隣」に実数がありそれが連続するとイメージさせる。しかしこの概念は構成的問題を持つ。
ある実数を x1 とする。 x1 の「隣」に + 方向へ x2 があるとすると、
もし、x2 - x1 = 0 であれば、x2 と x1 は同じなので矛盾する。
x2 - x1 = k > 0 で、k がある正の値ならば、k/2 など x2 と x1 の間に数がありこれも矛盾する。
従って、k は 「無限小」 とでもいうべきものであるが、これは構成的には不明瞭である。
「無限小」 にも違いがあると見なすこともでき、n → ∞ で と は両方無限小となるが、n が有限では異なるので、「無限小」にも違いがあると見なすこともできる。
実数が連続するという 「量」 的な考えにクロネッカーは異議を唱えた。彼は 「無限の操作」 を認めなかったので、極限も基本的には認められないことになる。
それでは数学はかなり不便なので、ポアンカレはこうした(解析学上の)収束する極限は問題ないと考え、「収束しない極限、無限操作の扱い」 のみ問題視した。
クロネッカーはワイエルシュトラス流解析学に批判的であったが、ポアンカレは肯定的である。
§ 実数は点(0次元)か線(1次元)の一部か?
デーデキント切断 (Wikipedia デデキント切断などを参照) は、連続する実数をある点で切り分ける方法を定義する。
ある直線をある点で切断する。
例えば、次のように直線 a を a1 と a2 に点c において切断する。
点c は a1 (右端) か a2 (左端) のどちらか一方の端にくっつく。
この定義では、点c は直線の一部分 (無限小部分) であるというライプニッツ流を継承している。
点c には 「実数」 が対応し、「実数の連続性」 を満たすことができる。
つまり、実数は線(1次元)の部分点と同値という考えである。
しかし、ユークリッド流の 「線は点の集まりではない」 という考えを継承すると、数は線の中で位置のみを示す。従って実数も 0 次元の点として、線の中で位置のみを示す。
幅0の点をいくらたしても線にはならず、この考えは、ポアンカレの多次元の切断へ延長できる。
デーデキント切断では切断自体が一つの部分点(無限小点)を有するのに対し、ポアンカレの切断では部分点を有さない。
つまり、実数は 「1次元の線の無限小部分」 か 「0次元の点」 かとこれも二重の定義が存在する。
線を有理数で満たすと 「スカスカ」で あるとされる。従って、有理数の間を無理数で満たして 「ぎっしり詰まる」 ようにする。
しかし、実数が幅 0 であるならば、いくらたしても 0 である。従って、「スカスカ」 という概念自体が、ライプニッツ流の定義(点は部分をもつ)を継承したものであり、「ぎっしり詰まる」 というのもそうである。
§ 点と実数の関係
このように、点と実数の関係は二重性をもつ。
細かい部分は(複雑になるので)さておき、次のように2つの定義にわける。
点 | 実数 | |
ユークリッド型 | 0次元で部分をもたない | 線の中である実数は位置のみ示す |
ライプニッツ型 | 部分点、無限小点 (何次元か規定しにくい) | 線の中で実数は部分点となり、連続する |
ライプニッツ型では、点は線の部分だから、線は面の部分であり、すると点は面の部分でもある。そうなると次元という概念は通常の考えとは異なる。(次元という概念はなくなるとも考えられる)
(この延長上にカントールの 「平面上には直線上と同じ数だけ点がある」 という命題がある)
関数は 「連続線」 でなくても定義できるが、連続線であることにより 「実数の連続性」 が満たされ、それにより 「最大値・最小値の定理」 や 「中間値の定理」 などが扱える。
つまり、関数が 「繋がっている」 ことにより、「スパッ」 とある所で切っても必ずそれに対応する点(実数)が存在する。
関数が 「点の集合」 の場合、「スパッ」 とある所で切るとそれに対応する点(実数)が存在するかどうか、一致する点を証明しないといけないが、証明できない(または困難な)場合がある。 「連続性」 という概念がそれを保証し、実用上便利になる。
「線の連続性」 は 「実数の連続性」 により幾何学と算術が共存する。
ユークリッド型とライプニッツ型は混在し、使用はケースによるが、それにより微妙な問題が生ずる。構成的に不明瞭とされる部分があることになるが、複雑なテーマなのでここでは省略する。
観測と空間 (序 / X) [科学系]
構成的な科学論は反実在論の一種であり、世界は人間主観、実在との相関存在と考える。
構成論は(素朴な観念論のように)「実在を否定する」のではなく、「実在する」ということの本来の構造を明らかにするのであり、否定するのは人間主観と分離した「自体的な実在」である。
現実は人間相関であり、現実を扱う科学理論の最終的な検証は実験である。ある対象に対し多数の有望な理論が現れた場合、どれを有効とするかは本来実験するしかない。
(未来に)何ら検証可能性のない理論はその妥当性を確かめることができない。
実験は失敗が大半であり、成功は僅かなチョイスの積み重ねである。研究は新たなことの模索であり、それは失敗がついてまわる。既存の範囲からは既存の結果しか生まれない。
経済や社会も人間相関である。従って、経済理論も社会理論も(ビジネスでは通常自然とそうなるように)過去検証や予測に基づいた実験検証が重要視される。
しかし、難しいのは、過去を反復しない面が多くあることや関連要素が多過ぎること、主観、意志、行為、価値判断による変化要素がありすぎるなど、人間行為の偶然、恣意的影響が大きいことである。それにより一般に変化後の側面的解釈論になりやすい。
科学は基本的にその対象について誰が何度繰り返してもほぼ同一現象を生じるのに対し、経済・社会というのはそういうものではなく、人間の社会・経済行為そのものがそれ全体をなす。
科学は、心以外の対象を目指しており、脳などに対する研究も具体対象としての研究である。対象を研究するとき、その内容が主観の差により影響を受けないことを(一応)目標にしている。
しかし、社会や経済はその対象自身が人間主観や他者主観の関係全体である。これらは信用関係の上にある種不安定に成り立っている。
§ 科学理論
科学理論には厳密な理論は本来ない。あるのは現在の考えとして現実的に「より妥当」なモデルである。
「より妥当」という言葉には、経験的、現実的にその対象に則した多数関係する要素を包括する意味が含まれる。
物理学では、「観測する人、行為」や「観測装置」「観測環境」「観測対象の状態」「結果の見方」「満足精度」「既存理論との整合」なども(普段は無意識であれ)含まれる。
物理は数式を用いて表現されることが多いが、数式の答えは現象そのものではない。
理論は人間の知性の側にあり、自然の側にない。
物理は、対象が自然であり、自然は感性を通じた経験である。数式は定義された記号概念と数値の組み合わせであり、数学的理念の形式である。
数学は、数学的理念、論理の内で「閉じる」ので、定義・公理問題など矛盾がなければ一旦完全に証明されると「永遠に真」である。
しかし、物理学の説明は「真」ではなく、装置を媒介した感性現象の中のある反復する因果と数学的理念の「調和」である。複雑多様に絡み合う現実を「ある見方で斬る」ことによって人間に理解できるようにする、その集積である。
よって「永遠に真」というのはなく「現状妥当」なものである。
もしそうでなければ、将来何を発見してもその説明は覆ることはなくなり、それは科学の進化の歴史と現在を否定する。
従って、科学説には幅があり、複雑になるほど妥当~そうでないか考えが分かれる。グレーゾーンから怪しいもの、SF的なものまで何を妥当とするか判断力が求められる。
現象の中での反復が「幾何学」モデルや「数式」「統計」により誰でも観測条件を同一にすれば確認できる場合、それは妥当な物理理論である。
最初は簡便な定義での数式化から始まり、それが無理であれば近似式や幾何モデル・イメージ化、確率・統計的な手法が模索されると思われる。
物理の定義は「真」なものではなく、人間がある基準を元に作った簡便な「現実的ものさし」である。しかし、一旦定義されると、それ以降論理的正誤はある。
例えば、数学において「3」という対象はいつもその理念と一致している。
しかし、ある物体の「3㎝」「3㎏」という現実的対象は人間観測における測定値であり、精密さにおいての誤差の範囲での満足精度である。「理念」から「対象測定」までには人間感性的調和がここに含まれる。
対象に応じて「精密」~「蓋然的」な調和となり、関係が複雑になるほど調和は困難となる。(単純測定や天気予報などを考えればいい)
空間定義も「客観的」にあるのではなく、ある局面では、ユークリッド幾何学が最も簡素で便利であり、ある局面では、非ユークリッド幾何学を用いた方が現実観測に適合した構造を描ける、ということである。
それまでの理論で説明できない現象が発見されると、その理論を包括する、又は異なる理論が模索されるが、どれほど高性能な理論であっても、未知の現象が未来に現れる可能性はいつでもある。
ある有望な理論による予測も「実測」により確かめられるまでは「仮」である。
元々、現在の理論も「現象」に適合しない理論は却下されてきたはずである。従って、有望な理論もそれまでの現象内では有望であるが、未知の現象に対する万能性は保証されていない。
今まで覆らなかった理論もその理論が証明された訳ではなく、帰納的に今まで覆らなかっただけであり、「今までの実験の結果残ってきたので覆る可能性は極めて確率的に低い」としても「全く覆らない」ことが演繹的に証明されてるとはいえない。
現象はあっても原理のないものもあり、それは問題にならない。何故なら、原理は人間にとっての便利な形式であり、自然がそれほど便利さを提供しているわけではないからである。
科学の限界は、自然と数学的理念の形式的「違い」であり、科学の適用は、自然と数学的理念の経験的「調和」である。
近似や誤差がある時点でそうであり、自然は完全には理論化できないが「調和の度合い」を増すことはできる。
§ 特殊相対論の前提
※詳細は解説書やサイトを参照のこと
マイケルソン-モーレーの実験は「光を伝える媒質(=エーテル)」の存在による光速の変化を確かめるための実験である。
エーテルという媒質により光が伝達されるとすると、地球の公転運動と光の方向の違いから光行差が確認されるはずであるが、期待された結果は得られず、エーテルという媒質に疑問符が付される。
この実験は「エーテル」を前提としたものであり、この実験によって「光源運動する光の速度の観測」に結論が下されたとはいえない、または微妙である。
実験結果である干渉縞の観測も「光(干渉縞からの光)の観測」に頼っているのであり「光によって光を観測する」と循環論的問題もある。
ローレンツ等はエーテル説をあきらめず、エーテルに対して運動する実験装置全体は進行方向に縮む(ローレンツ-フィッツジェラルド収縮)仮説を提示する。
ポアンカレはエーテルの存在を否定し、絶対時空から相対時空、絶対視点から観測者視点への転換を行い、特殊相対論の基礎を築く。
特殊相対論についてはローレンツ、ポアンカレを中心に断続的に考察が進められ、科学思想的なバックボーンから必然的に生まれている。
元々特殊相対論は思想的に経験論的(構成的)であり、観測者間の同期という点でも間主観的な考えを用いている。
§ 特殊相対論
特殊相対論を構成的な視点で捉えると次のようになる。
● 人は超越者の視点に立つことはできない
● 本来は、観測者視点しかなく、「そう見える」物理法則を考える
● 「そう見える」というのは「光」によってそう見えるのであり、伝達する媒質である光(電磁波)が届かなければ、物体があろうとなかろうと観測者はそれを把握できない
● 物理的意味での時間や空間の概念は一つの決めごとである
● 物体を「光による意識構成現象」として捉えるのであり、「光(光速)」を中心に観測対象の「時間」「空間(距離)」の概念を転換させる
● 超越者視点での一様な「絶対空間、絶対時間」から観測者視点での観測単位での「相対空間、相対時間」への転換である
● 「絶対空間、絶対時間」では、遠くの物体は瞬時に観測できることが前提になっているが、そのような媒質はなく、光により観測を行った場合には誤差が生じる
● 運動している観測対象の「時間が遅れる」というのは、観測対象にある「時計」を観た場合、光の到達には時間がかかるので、手元の時計と比較すると「遅れているように見える」というだけである(時計、時間の遅れというのは2つの時計の比較でしかない)
● 端的に言えば、物体を観測するとは「物体からの(反射)光を観測する」のだから、「光の加減で」縮んだり、遅れたりして見えるというだけである
● 「見かけ」と「実体」があるとすると、それは「見かけ」の物理法則に過ぎないのではないかという疑問もあるが、そもそも「実体」とは超越者の視点か実体側(観測対象側の観測者)の視点になっている(のであり、そういうものは本来ない)
それまでの物理学は「絶対空間」「実体法則」を基本としていたが、それは「速度無限大の可能観測」と同じことである。
そういう媒質はなく、限界速度をもつ光による観測しかない。
物体観測は光による現象の把握だから、光速を基準にした観測(見え方)の物理法則を作った方が適切である。
超高速なロケットは観測すると「光の加減で」進行方向に「縮んで見える」だけで、実際に「縮む」わけではない。実際に「縮む」とすると、速度を緩めると「伸びる」ことになってしまう。
つまり、現実的観測というのは「あるものさし」との比較であり、「縮む」「伸びる」というのは、その「ものさし」との比較である。
「ものさし」は正しい「ものさし」ではなく、現実観測により適合する簡便な「ものさし」であり、経験的な根拠に基づく。
「時間と空間は、自然が我々にこれを課するのではなくて、我々が便利だと思うので、これらを自然に課するのである」(ポアンカレ)
§ 光速度不変
特殊相対論において「光速度不変の原理は不要」(ジャン・ラディック)という考えがある。
「物体」の運動を観測する場合、物体からの「光(の反射)」に基づく。
絶対空間では、光は無限大の速度をもつのと同じように扱われる。しかし、光は有限の速度しかないから、特殊相対論では光速により観測法則は補正される。
では、「光」の運動を観測する場合、何に基づくのか?
同様に考えるなら、「光」から発する「無限大の速度をもつ媒質」がなければならない。あるいは、「光」から発する「光よりも速い媒質」により、相対論効果と同様に「光よりも速い媒質」に合わせた別の相対論が必要になる。
しかし、そういう媒質はないから、やはり「光」に基づくしかない。
これでは循環論である。
「光源運動する光速の測定」というのは、ある「絶対空間」「無限大速度可能観測」あるいは「光速以上の基準」に基づいた発想である。
そういう媒質は(観測媒質として)ないから、「相対論」では「光速」を基準にした観測者視点での物理法則が考えられた。
従って、「光速度不変」というよりも、「光速は一定にしか観測できないから、視点と光の限界速度を基準にした観測物理法則にする」という方がその思想に合っている。
つまり、「光を基準にする」なら物理的には「光速度不変」と同じである。
「光速度は客観的に不変か?」という問いは本来問題にならない。
何故なら「光速は一定にしか観測できない」(相対観測空間)と「光速度は客観的に一定」(絶対空間)とは意味が違うからである。
「光の客観的性質」が問題になっているのではなく、「光の現実観測的性質」が問題になっている。
「光速は一定にしか観測できない」+「空間とは視点を中心とした光構成による相対空間(主観的空間)である」=「光(速)を中心とした観測物理法則にすればいい」というのがポアンカレの回答と思われる。
簡単に言うと「客観空間はなく、主観空間しかない」その主観空間は「光により構成される」ということである。
視覚により「物体運動を観測する」ということは「光を基準にする」ということであり、それはつまり「人間観測を基準にする」ということでしかない。
人は「視点があり」そこから「空間が拡がっている」とイメージする。しかし、これは後者に客観的な絶対空間が混入している見方である。「視点を中心に光により意識構成されるものが空間」である。
頭の中で自然と第三者的な客観的な構図を描いているのを主観的な構図に切り替えるのである。
そうすると、高速ロケットが縮んだり伸びたりしても不思議ではない。
「ローレンツ収縮はいわば、速度に基づく遠近法の一種である」(ワイル)
物理法則として「視点と光」に「空間」概念を合わせるのは以上のような根拠をもつ。そして「光速」と「空間」から対象の「時間」も導かれる。
一般相対論では「時空が歪む(から→)光が曲がる」と説明されるが、相対論の基本的な考えとして「視点に対する光(の進行)」=「空間」と考えた方が観測法則として妥当ということである。
光を中心に考えた意味での「時空」が相対論の時空である。
「光が曲がったかどうか」というのは「曲がっていない」と解釈される光との比較である。「曲がっていない」光も統計的に通常の光ということで絶対基準ではない。
§ 宇宙
宇宙論を4次元時空で考えることは「上記の意味で」根拠をもち、「宇宙は客観的に4次元である」というのとは異なる。また次元の増加には相応の経験的根拠が必要である。
観測法則を変化させない限り、物理的宇宙空間とは人が「観測できる空間」のことを指す。
電磁波を発しない見えない物質についても、計測は光の歪み(と解釈される現象)を利用し予測している。
では、電磁波などの方法で何ら観測できない物質が宇宙にある場合どうなるのか?
その場合は知りようがないのである。
「全宇宙」は知りえず、人が知るのはその時点までの発見部分である。
その宇宙は、間主観観測的な構成的宇宙である。
(知らない宇宙は、いつも知られた宇宙の外側にあるかもしれないし、ないかもしれない)
直観主義の理念 [数学系]
「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」 (クロネッカー)
以下は直観主義(構成的数学)の発想についてである。
直観主義は、数や対象存在を中心に考える 「純粋存在型数学」 である。
この概念より広いあるいは異なる枠での数学についてはここでは扱えなく、基本的な部分のみである。
数学は何から始まったのか、というのは紀元前の話で、現実的にどうだったかという史実的な話はさておき、数学哲学で問題となるのは論理的起源である。そのためには、なるべく先入観を取り除かないといけない。
目の前に 「何かあるもの」 が複数、多数あるとき、それは 「木」 でも 「石」 でも 「指」 でも何でもいいが、その並びに対応する形で 「単位となるある対象の集まり」 が考えられる。
その 「集まり」 を理念的に整備したものが 「自然数」 である。自然数は、繰り返しによって延長され、無限の値をもつことができるように整えられる。
「集まり」 は 「想像」 対象でも 「現実」 対象でもいいが、それに対して 「加える」 「減じる」 操作が経験的に成り立つ。これに対応するのが自然数の 「加法」 「減法」 である。
(算数の足し算、引き算、掛け算、割り算 = 数学の加法、減法、乗法、除法)
自然数の減法を考えると、 「 3 - 3 = ? 」 「 3 - 7 = ? 」 というように 「0」 と 「負数」 が現れ、そして「整数」が整備される。
従って、「はじめに自然数ありき」 又は 「はじめに整数ありき」 と考えられる。
最初のクロネッカーの言葉は象徴的なもので、人間が自然数や整数を作ったと考えることも可能であるし、逆も可能である。 「作る」 の意味によるのであり、自然数の加法、減法については、集まりに対する経験に平行し、人間でなくてもある程度の知性があればここから始まる。この言葉は起源を明かすものである。
標準が10進数になったのは、手の指の数と考えられる。10進数以外でもよいが、指で数えるときに違和感がある。古代には様々あるが10の倍数が多い。
数や加法などの理念操作に応じて 「5」 や 「+」 という記号の整備が行われる。アラビア数字と漢数字が違うように、記号はバラバラであるが、ロジックはどこの数学でも同一である。
「加法」 「減法」 を複数回同一操作を行うことにより 「乗法」 が現れ、「乗法」 の逆操作で 「除法」 が現れる。
整数の 「除法」 により 「分数」 「有理数」 が現れる。
「 = ? 」 「 = ? 」は「乗法」の形 ( 「 1 = ? × 0 」 「 0 = ? × 0 」 ) に直され値が確かめられるが、それは「除法」の根拠が「乗法」だからである。
有理数(分数)の小数表示により、有限小数と循環小数が現れる。
有理数で表すことのできないものが無理数である。
代数的無理数( など)は 「 = 2 」 と X を有理数で表すことができないものがあるので、それから拡張される。
超越数( など)も代数的無理数で表すことができないものとして拡張される。
複素数(虚数)は 「 = -1 」 などから拡張される。
[ [ [ [ [自然数] 整数] 有理数] 実数] 複素数]
このように根拠となる定義から定義の拡張は行われ整備される。
問題となりそうなのは、循環小数と代数的無理数と超越数であるが、 と と で考えてみると、
と は存在する。 は「 = 2 」として存在すると考えてもいいが、 でも特に問題はない。
は微妙な問題を生むが、幾何学として存在するので、存在すると考えてよさそうである。
つまり、根拠となる存在が矛盾なく与えられている場合、それは存在する。問題は対象存在から遊離した 「記号化」 である。
上記の数を10進数で計算表示したときであるが、これは可能無限として、
← 0.333333 ・・・
← 1.414213 ・・・
← 3.141592 ・・・
左の値に近づく(収束)と考えられる。しかし、10進数において正確には表示できない。
「超越数は存在しない」 という言い方があるが、何らかの存在根拠がある場合は存在すると考え、10進数では正確に表記できないと考えた方がよい。
が存在しないなら、幾何学も存在が危うく、数学的理念として存在する。
幾何学の出現は 「現実空間」 との対応である。 「現実空間」 や 「現実平面」 での経験を理念的に整備したのが 「ユークリッド幾何学」 である。
「あるもの」 が移動する、又は「私」が移動・動作するという現実空間での経験や、私と対象との視覚や触覚での関係性は、幾何学の三次元空間によく適合する。生活上での狭い領域の空間は、三次元空間で考えても特に不都合はない。
しかし、現実空間を幾何学的三次元空間で理解するのは 「便宜上」 である。
現実空間というのは、「自己の目や身体」 を中心に拡がる空間である。いわば、真っ暗な部屋でサーチライトにより全体を把握するように、視覚(や触覚、聴覚)により人は全体空間を構成的把握し、また常に記憶として全体的構成空間をもつ。身体に近い中心の部分の方が質的、関係的に重要である。
しかし、幾何学上での三次元空間は、その空間内ではどこも均等であり、質は変わらない。
幾何学的空間はあくまで 「数学理念的」 なものであり、現実空間は 「感性的」 に(知覚を通じて)経験される空間である。これらは同じではなく 「形式が異なる」 が 「便宜的に」 用いると、「数学理念的」 なものと 「経験的(対象的)」 なものが調和適合し、現実的に(真ではないが)妥当である。
自然物はそうなっていないが、人工物が幾何学的なのは、幾何学を元にして人間の満足しうる精密さで作られているからである。
「経験は、どの幾何学が最も真であるかということを認識させはしないが、どれが最も便利であるかを認めさせる」(ポアンカレ)
数学体系を 「はじめから存在するもの」 として学習すると、「客観的な数学全体」 から 「各部分」 が存在するように思えるが、これは逆である。
「各定義」 は 「根拠となる定義、論理」 と矛盾しないように拡張されたものであり、拡張は 「新たな推理」 「直観」 をもとに行われる。
自然数、整数、有理数、実数、複素数というように数(の集合)は拡張されたのであり、最初に 「全体の数」 があるわけではない。拡張された定義は、いつでもその根拠に遡ることができ、遡った先の定義には「存在」が与えられている。
数学は構成的に 「新たな推理」 により進み、構成された部分の中で 「演繹」 的に成り立つのが客観的なものである。
コンピュータは人間の通った道しか通れない。同じルートを高速に走るだけである。そのルートは全て人間が作ったものである。そして1度 「完全に」 作られたルート(定理や関数やCPU)はいつでも検証なく再利用可能である。
作られたルートは客観的に 「既存ルート」 としてあるが、作られていないルートもありうるわけで、数学は(コンピュータと同様)全てが決まった全体としてあるのではない。
数学も構造物として存在し、その構造物以上については 「新たな推理」 を必要とし、それにより構造物は大きくなる。その新たなルートの創造の大きさが数学的価値である。
もし数学が単なる決定したルート体系、トートロジーであるならば、数学者は何を発見してきたのかわからない。元々あったものを発見しただけというならば、その 「元々あったもの」 というのは、超越者目線での仮定である。
「元々あったもの」 として見えているのは、既に発見され演繹的に成り立つ部分である。これから発見される部分については誰も知らない。
現代数学の 「実数の定義」 は、構成的拡張を経ずに、幾何空間(直線)と位相的に対応すると定義され、その根拠として 「実無限」 が使用される。
「実無限は存在しない。私にとってはこの問題には疑問の余地はない」(ポアンカレ)
無限とは 「限りが無い」 ことである。実無限は 「完結した」 無限である。「限り無く、完結」 「終わりなく、終わる」 これは無理がある。
反対の内容をもちながら 「どちらも真」 というアンチノミー(二律背反)から出発した場合、問題が次々と現れても不思議ではない。
「カントール集合論の特徴の一つは、漸次に複雑な建物を築きあげつつ一般的なものに進む構成的定義を与えることをせず、最高類より出発して、最近類と種的差異とによって定義する点にある」(ポアンカレ)
整数から構成的に拡張されたのが実数であったはずが、客観的な実数空間(無限集合)を最高類として定義し、その定義の配下に 「ある類」 と 「その他類」 を作る。
「定義」 は構成的に 「A」 が作られ、それと矛盾しないように 「B」 が拡張される。ここで 「A」 と 「B」 以外は不明であり、「全体」 のことはわからない。
客観的な方法は、「全体Z」 を先に作り、そして 「A」 と 「A以外」 という定義を作るような方法である。「A以外」 は存在が必ずしも与えられていない場合、これが問題のもとになる。
つまり、先に存在するかどうか不明な 「全体Z」 を考えるから、「否定側」(A以外)の整合をとらないといけなくなり、それにより 「排中律」(無矛盾)の成立を考えないといけなくなる。
「A」 + 「B」 = 「定義C」 であれば、「C」 の中に限り 「A」 と 「B」 の排中律は成り立つ。よって、この場合背理法を用いても問題ない。
しかし、「全体Z」 - 「A」 = 「A以外」 という場合、「A以外」 には一致するような定義(存在)を与えることが可能か不明である。このときに、「A」 と 「A以外」 の排中律が成り立つかは不明である。
実数空間は実数の最高類の全体としてあり、その配下に複素数以外の数が収まることになる。しかし、その数は構成的な手続きを経ていないものもあり、「存在」 が疑わしい。
「全体Z」 の配下に 「A」 「B」 「C」 「D」 の数があるとすると、「全体Z」 から定義した場合、「A」 でも 「B」 でも 「C」 でもないものは、全て 「D」 という設定になる。ここで 「D」 は必ずしも存在するとはいえず、構成的に与えることができる 「D」 以外の 「D」 は仮定である。
例えば、「D」 を超越数であるとすると、「A」 「B」 「C」 以外の実数は全て超越数ということになってしまう。ここで、「A&B&C」 と 「超越数」 の排中律は成り立っているのか不明である。
実数空間はどれだけ実数で埋めても 「埋め終わらない」。本来の数なら 「どこまでも埋められる」 & 「どこまでも埋め終わらない」 のはずであるが、「実無限」 の実数空間が仮定され、そこから逆算が発生する。
こうなると 「実数」 というのは通常の 「数存在」 の性質とは異なるものになる。「数存在ではないが、全体が量的なものとしてある」 という不思議なものになる。
つまり、0次元の 「点」 として存在するものを、1次元の 「線」 に昇華させることになるのであり、ここで実無限のマジックが必要になる。
いずれにせよ、この「実数」の定義は、他の数の定義と離れた定義の方法である。
「数存在(0次元)」 と 「量存在(1次元)」 を結びつける必要はあるのか、あるとすればそれは 「実無限」 でなければいけないのか、・・・
「定義は、矛盾を含まず、また先に承認してある真理とも矛盾しないことを証明しえなければ、純粋論理的見地からは正当なものと認められない」(ポアンカレ)
「純粋存在型数学」 から離れた数学については全体が見えないといけないのでここでは扱えない。
ただ、直観主義は数学の基礎づけに関する問題を解消し、数学の正当性の根拠を提示していると思われる。
「矛盾のない数学的存在」 に 「数学の正当性の根拠」 はあり、「記号」 や 「言語概念」 に対応する 「存在論理がない」 あるいは 「存在が状態変化する」 ことがパラドックスを生む。
プログラムに新たな文法(命令記号)を作っても、それに対応した正当な存在ロジックが与えられていないと無意味なように、存在のない「記号」からパラドックスが生まれてもそれは必然である。
「存在、論理」 は、根拠となる 「存在、論理」 によって正当化される。その地続きとなる 「構成的論理」 により論理の正当性は堅持される。途中の飛躍はそれを分断する。
コンピュータもハード、OS、アプリケーションソフトと地続きとなるロジックにより動作は保証される。何か問題があれば動かないのでコンピュータはわかりやすいが、それを机上で全てチェックするとなると誰でも困難である。
誰しも生まれたときから数学体系は存在し、体系の生成過程については知らない。従って、思考によりその論理的起源は証されるが、それを実際に行おうとしたのが直観主義者であり、機械を通じて行ったのがコンピュータ設計者である。
直観主義の具体例 [数学系]
直観主義は情報も少なく、イメージしにくいのが難点である。
一つのサンプルとして、以下の問題が良さそうである。
「 1 = 0.99999・・・ ?」
この問題は以前から特に海外を中心に議論になっているらしい。
解答としては、
(1) 1 = 0.99999・・・
(2) 1 ≠ 0.99999・・・
(3) その他
が考えられる。
こうした数学上で意見の分かれる問題は、ほぼ哲学に絡む問題である。数学だけで見るとまずループに入る。
一般に、Wikipedia など、現代数学教育を受けている人の解答は (1) が多く、それ以外の人は (2) に近い傾向にある。
以下では、直観主義をベースにこの問題を考える。
よくある説明では、
1/3 = 0.33333・・・
両辺に 3 をかけて
1 = 0.99999・・・
とあるが、この説明は(当然に見えるかもしれないが)「全行」疑問である。
まず一つの混乱は「0.33333・・・」この記号の解釈が2種類存在することである。
実無限 :到達された値、完結した無限
可能無限:いつまでも続くという可能性としての無限
一般に、「0.33333・・・」こう書くと、「実無限」つまり「無限に続くという値」をイメージする。
しかし「無限に続くという値」は存在しない。何故なら、存在すれば、その存在値からも更に「無限に続く」のだから「矛盾」する。つまり「値」であれば「矛盾」であり、従って「値」ではない。
「0.33333・・・」こう書くから謎めいているが、「33333・・・」こう書けば、この値は無限大へ続くので、こういう「値」は「値としては」存在しないとわかるはずである。
「0.33333・・・」「33333・・・」この両者は収束(他の値に近づく)と発散という違いはあるが、「存在値」の構成という点では「同じ」であり、両方構成できない。
次のように考えればいい。
プログラムにおいて扱われる数字というのは、あるデータ領域(型)をもち、それにより扱える数値の範囲が決定する。
C言語で、
char a;
と書けば、a は 1 byte(= 8 bit) であり、2 の 8 乗 = 256 個の数値を扱える。
long型 だと 4 byte であり、double型 だと 8 byte で扱える数値である。
可能無限の立場は、領域として「無限 byte」であり、その中である値をもつことができる。
無限型 b;
と考えればいい。
値は、ある値であるが、領域が無限にある。
しかし、実無限の立場は、値自体に「無限」という値があることになる。
つまり、上記において b に「ある値」(可能無限)ではなく、「無限という値(完結した無限)」(実無限)を作ってしまったのである。
例えば、
0.99999・・・ と 0.99999・・・9 は同じだろうか?違うのだろうか?
0.99999・・・ の最後の数字は、9以外はおかしいだろうから、同じとも言える。しかし、最後の数字は存在するのか?無限に続くのであれば最後の 9 以降はどうなるのか?
こうした問題は、「記号」の先に観ている対象が、数学的存在対象として「はっきりしない」のが原因である。つまり、「記号」を観ていることにより、実際の「対象」が様々に解釈可能である、という状況にある。
「0.33333・・・」というのは、実無限解釈であれば、そういう存在値はない。
しかし、1/3 を 10進数で表記したとき、小数 1桁目から順番に計算したときに計算可能な範囲での値(可能無限)ということであれば、存在する。
コンピュータでは、
0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 = 1.0000001192
こうなることもある。
これは、コンピュータは2進数で値を扱うので、10進数の 0.1 は 2進数 で表現できないことに原因がある。従って(領域を大きくとっても)近似値になる。
これと同様に、1/3 というのは 10進数では「表現できない」。無理に表現して、「0.33333・・・」と書いても、(実無限解釈であれば)これは値ではない。
(実無限解釈において)0.33333・・・ に 3 をかけと、0.99999・・・ と説明されるが、これも疑問である。
例えば、円周率 = 3.14159265・・・ であるが、
3.14159265・・・
× 3.14159265・・・
---------------
を考えればわかるように、10進数で無限に続く数を10進数の「答え」として計算する方法はなく、近似計算しかできない。計算するならどこかで区切らないと無理であるが、どう区切ればいいのか?
そして、どこから計算するのか?前からなのか後ろからなのか?
0.33333・・・
× 3
---------------
これは、小数1桁目から「計算していくことができる」ように「記号だけ」をみれば思えるが、無限に続く小数の掛け算の方法は、決定したものではない。小数の最後からは計算できない(無限の先なので到達できない)が、何故小数1桁目からは計算することができるのか?
この計算方法は、記号中心型でありイレギュラー方式である。つまり、一般化できない特殊計算方式である。
小数1桁目から「計算していくことができる」というのは、「計算し終わる」のであればよいが、「無限に終わらない」。つまり「無限に計算していくことができる」と「無限に計算し終わらない」と両方成立している。後者が「忘れられている」。
「計算の積み重ね」の終了→「計算結果」であるところが、「計算の積み重ね」→「計算結果の積み重ね」になっている。「計算結果の積み重ね」が終わらない。
「数学的事態(値)」ではなく「記号」を追いかけていることにより「錯覚」が発生している。また、「実無限」と「可能無限」の解釈が混在し、混乱を招いている。
結論として、0.33333・・・ は、実無限解釈では「存在しない」となり、可能無限解釈では「 1/3 ≠ 0.33333・・・ 」となる。
(1) 1 = 0.99999・・・
(2) 1 ≠ 0.99999・・・
(3) その他
これも、実無限解釈では、
(3) その他(0.99999・・・は存在しない)となり
可能無限解釈では、
0.99999・・・ 自体を何かから導く(構成する)ことができれば、やはり (2) 1 ≠ 0.99999・・・ と考えられる。
循環小数の定義は、一般に実無限であるが、可能無限ともみることもでき、定義に問題がある。
円周率 = 3.14159265・・・
この右辺も、完結する値(実無限)としては存在せず、10進数で表記した場合の計算可能な範囲まで(可能無限)としてある。従って、「=」は正しいとはいえず「便宜上」と考えた方がいい。
前回書いたように、
構成派は、数学的対象を人の直観、構成により「与えられる」場合のみしか認めない。
実在論派は、数学的対象を人の直観、構成から独立して存在すると考える。
「直観」とは「直感」ではなく(その意味が含まれることもあるが)、「直接的に観る」「直接的に意識に与えられている」ということであり、「数学的理念存在」を「直接観る」ことである。
形式主義は、
「直観」 → 「記号」
であるが、直観主義は、
「直観」 → 「記号、言語」 → 「対象(数学的事態)」
「直観」 → 「描かれた図」 → 「幾何対象」
「直観」 --------------→ 「対象(数学的事態)」
ということであり、「記号」中心から「数学的存在」中心への転換である。
例えば、ノートに書かれた曲がり気味の直角二等辺三角形でも、実際に数学的対象として「観ている」のは、幾何学の理念としての直角二等辺三角形である。
ノートに書かれた直角二等辺三角形も、想像した直角二等辺三角形も、対象としている理念は同一であり、いつどこででも同一である。理念なので、線幅というのは本当はない。
実在論派(主に形式主義)の考えでは、「記号」の先の対象が「不明確」なことがあり「記号規則」しか与えられないので、数学の正当性の根拠が「与えられない」または「循環」することがある。従って、様々なパラドックスが現れる。
例えば、「 ∞ 」という記号であるが、この「記号の先」に「観ている」ものがその「対象としているもの」である。記号だけではこの「対象」が何かが曖昧である。
「カントールは数学に実無限、あらゆる限界を超えようとする可能性あるのみならず、実際それを越えてしまったと見なされる量を導入しようと企てた」
「無限とは哲学者によって生成と呼ばれるところのものであった。数学的無限とは、あらゆる限界を超えて増大する可能性をもつ量というに過ぎなかった。すなわち、あらゆる限界を超えてしまったとは言うことはできぬ、ただあらゆる限界を超えようとするものであるとのみ言うことのできる、ある数量のことを指した」
(ポアンカレ)
「非確定的と見なされねばならぬ定義は、循環論法を含む定義である」
「定義は、定義される対象の存在を主張する」
(ポアンカレ)
数学的対象として存在しない「定義」、あるいは同じ事であるが、「定義A」の根拠が「定義B」であり「定義B」の根拠が「定義A」と循環し、「定義A」も「定義B」も数学的対象として存在しない場合、これは「循環定義」となり根拠づけられたものとは言えない。
端的に言うと、これは(存在ロジックと離れた)「宙に浮いた定義」である。
定義は「定義される対象の存在」が最終的に与えられていなければならない。
「実数」の定義として、一般に
「実数は様々な量の連続的な変化を表す数の体系である。実数全体の空間は、位相的には途切れのない完備性とよばれる性質をもつ」
「実数の集まりを幾何学的に表示する方法として数直線があげられる。これは実数 0 に対応する原点とよばれる点を持った一つの直線で、直線上のそれぞれの点と原点との向きをこめた位置関係が各実数に対応している」
(2008.01 Wikipediaより)
この定義は「線分は無限の点で満たすことができ、点の位置に各実数は対応し、実数全体は連続的に途切れない」ということである。この説明に違和を感じるか否かである。ここにも「構成できない完結した無限(実無限)」の定義が内包されている。
線上の同じ点以外の2点間はいつも無限に点を打つことができる。打たれた点の間にも無限に点を打つことができる。
しかし「無限な点を打ち終わる」(実無限)とは言えない。「無限に点を打つことがいつまでも可能である」(可能無限)というだけである。そしてこれは「無限に点をいつまでも打ち終わらない」ということと同じである。
点をたしても線にはならない。(というより点をたすことはできない)
「実無限」も「実数」の定義も実は定義に対応する存在が与えられていなく、「どの説明も」存在しない定義が循環している。
0.33333・・・など「実無限の実数」の根拠は「実数の定義」で説明され、「実数」の根拠は「実無限」である。
「実数という数のクラスが初めてはっきりと取り出されたのはカントールによる集合の研究においてだった」
「構成方法に自明でない手続きが含まれるため、実数の空間は数学基礎論の観点からも興味深い性質を持っている」
「実数の体系の持つ超越的な性格は集合論の初期から様々な数学者の嫌悪の的となった」
(2008.01 Wikipediaより)
数学において「定義A」の根拠が「定義B」、「定義B」の根拠が「定義A」で説明されることがある。これは「よい説明ではない」が、しかし、「どこかで実は数学的存在が与えられている」場合と、「与えられていない」場合がある。前者と後者の区別が意識されていない場合があるが、問題は後者である。
プログラム言語というのはいくつもあり、今後もいくつでも作ることが可能であり、言語体系は「ある決まった正しい体系」というのはない。では、どんな「無茶な」言語体系でも作りえるのかというと、それはできない。根拠となる存在ロジックが与えられないところは「動かない」。
(1) 1 = 0.99999・・・ という解答は「実数の定義」と「実無限定義」の存在しない「循環定義」を根拠とし、疑問である。
この定義を元に体系学習すると、定義には疑問を持ちにくい。定義に疑問をもつのは哲学的な何かが必要である。
(次縞で根本的な点について更に説明する)
実数の定義については直観主義者により異議が唱えられているが、結局「1 = 0.99999・・・?」の問題はここに行き着く。しかし、何故これが問題(矛盾)なのか合意が得られにくい。
これらの定義は現代数学に根を下ろしている。直観主義は「過激な帰結」(ワイル)なのだろうか?実は根は一つではないのだろうか?実無限と実無限を内包した定義である。しかし、それは拡がっている。
「現実性」「便宜上」の判断というのもあるが、直観主義の考えが単に理解されず「近年理解されてきた」ものと思われる。
直観主義は、思想的でも、派閥的なものでもない。実無限は、数千年数学で1世紀くらいである。
数学は、一応基礎的原理であり、現実の実用論、経験論とは異なる。数学自身の原理でもあり、応用・実用のためにもあり、科学、工学、経済も数学なしに成り立たない。分野にはその分野の特性がある。
歴史など事実集積的な話は、様々な見方により「おおよそのところ」「妥当な線」として枠広く時代においてあり、ある程度解釈相対性はある。経営なども試行錯誤であり必ずしもロジカルには進まない。
しかし、数学は理念的な抽象対象であり、永遠性が確保されるため、「矛盾」は何年たっても「永遠矛盾」である。従ってこれは永遠に蒸し返される。
「数学において存在という語のもつ意味は、矛盾がないということである」(ポアンカレ)
(本来の)直観主義数学は単に矛盾をとるだけであり、コンピュータが「機械的」に行うことを「机上で」行うことである。それを行わないと、存在根拠のない「定義」によりパラドックスは避けられない。
コンピュータ系の人が「直観主義」の立場をとる傾向にあるのは、「記号」(文法)より「数学的存在」(値、実体)の整合を現実場面で気にせざるを得ないからである。
ポアンカレの言葉は簡素でさりげないが、とても見抜かれたものである。実は解決されている問題も多く、科学・数学哲学では頭一つ抜けている。
相対性理論その他についても、著作で根本哲学からその先の進路についてかなり述べられている。相対性理論の混乱も創始したポアンカレの構成的な根本発想が抜け落ち気味なのが原因の一つと思われる。
哲学を忘れた学問は、糸の切れた凧になりかねない。(哲学は凧のない糸のようだが・・・)