ブリタニカ草稿(最終稿)第10節 [読解シリーズ]
【超越論的現象学への準備としての純粋心理学】
○心理学主義が克服されなかったのは、主観の二重性(心理的、超越論的)という問題が明らかにならなかったからである
○形相(理論)的な学問としての心理学はこれまで存在しなかった
○超越論的態度は生活全体の変更をも意味し、その独特の新しさにより必然的に理解されにくいものである
○現象学的心理学は、新しい心理学であるが、実証的な学問と親しい関係にある
○現象学的心理学の学説内容は、超越論的なものにまなざしを向け変えると超越論的現象学として理解される
○現象学の困難は、合理的な心理学として「内的に経験する」ことの意味と、超越論的方法の意味を理解することにある
○超越論的関心こそが、もちろん究極的な学問的関心である
○必要なのは、超越論哲学を自立した体系の中で形成することである
○また、超越論的態度と比較しながら自然的態度のあり方を明確にすることで、超越論的現象学を実証科学に適用する可能性について現象学の中で明らかにすることである
【まとめ+】
現象学が追求しているのは、理論的な問題としての哲学であり、「解釈」的なものではない。理論的というと、現実と遊離しているようにも見えるが、そうではなく、ただ一般本質的なものというだけであり、「いつでも、誰でも、どこでも」という問題を扱う。
時代や地域によって変化するような、事例的な問題や個々のケースとなる「偶然の問題、普遍的に言えない問題、解釈問題、時代的な合意による問題」にはほとんどタッチしない。時間の経過と共に忘れられる問題は、基礎的な意味での哲学の問題ではない。
「解釈」問題は、相対性、時代性、個別性を免れない。それは幅広い意味での哲学の問題であるが、理論として正否を言うことは難しい問題である。言えるとすると、「解釈」の内容ではなく、「解釈」する人間の認識構造ということになる。
「相対性がつきまとう困難な解釈問題、現実問題」の扱いは別課題である。
普遍(本質)的なものと相対(事実)的なものと区別することは哲学の課題であり、現象学は理論的にどこまで押し進められるか、ということである。このことは区別がつかないまま語られがちであり、相対(差異)か、同一か、では遠くへは行けず、(事実と本質についての)原理矛盾を抱え込むことになる。
難解さもあって、現象学は果たして現実の人間に向いているのだろうか、という疑問もある。どうも理解されにくいのは、フッサールの記述の難解さのせいだけではなさそうである。根本的に「生きた自分の問題圏」でないと、全く何のことか「異次元」の話である。基本的には、フッサールの話でも何でもなく、全て「自分の問題圏」にある。
人間に向いているか向いていないか、は本来哲学原理としては問題ではない。難解な数理が、向き不向きではないように、難解さは問題ではない。数学者、哲学者に向き不向きはあっても、数理、哲理に向き不向きは関係ない。(ただ難解なものはわかりやすく一般化するという課題があるだけである)
「凝縮された緻密な難解さ」と「書いている本人もよく理解できていないこと」はある理解がないとなかなか判別できない。現代の難解さの多くは後者であり、専攻に関係なく、意味不明のものから、文学的にカモフラージュされたもの、巧妙に理解されないように画策された難文まで、様々な作為が競われがちである。
そもそも現実とは、偶然の積み重ねであり、人間もそうである。であるならば、普遍的な理念、人間の本質構造などというような現象学の「理論」は果たしてどこまで言いうるのか?それは「いつもの」適当な「まやかし」ではないか、という疑問はありうる。
しかし「現実も人間も偶然の産物」という考えも、「一つの理念」であり、人は懐疑するにしろ、批判するにしろ「事実(相対)的なものも本質的なものとして」論理化している。ある「観念」と「合理性」でしか哲理の批判も批評もなく、それが矛盾を起こさないように根源から組み立てることが可能なら、それは哲学の課題である。
「理性への過信」という言葉も、理性判断であり、ここでは「独断的な合理主義」への懐疑が「理性的に」問われている。「精神性の問題」は理性では問えないということはなく、「一般本質的」なものとして問うことは可能である。「哲学として書く」ことは「一般化」「普遍化」を目的にしているのであり、それを否定することは矛盾となる。理性に否定的な人も、(心情と論理が混乱しがちであるが)暗黙の内に理性を用いていることの洞察が必要である。
論としての「一般本質」しか普遍性は得られない、ということから現象学は「形相的還元」「本質記述」により、理論化、「普遍知」を目指す。
普遍知として困難な問題、難しい問題は、曖昧さをなるべく排除し、その困難な理由が示された方がよい。普遍知として言える領域、普遍知として難しい領域、解釈知の領域、あくまで相対的な領域を区別することは「知」の通りをよくするはずである。
個別の体験や心情、実存という個的リアリズムは、事例性(や時間性)を逃れられないのであり、全てを普遍化することは基本的にはできない。普遍化できるのは、その中の共通部分だけである。
個人の想像や体験というのは、どこまでも無限に「進みうる」というのが本質的であり、「観念のバケモノ」になりうる、ということが本質的である。妄想であれ、個的リアリズムであれ、何ら普遍性、現実性、他者批評性のないものを観念的に押し進めても、一般的なものにはならない。
人は自称で「天才」「超越者」「宇宙人」「予言者」何にでもなることは可能であり、「世界を俯瞰」できる気にもなれるものである。巧妙な言葉で、ある程度複数の人を信じこませることができるならば、一つの勢力になりうる。しかしそれにより、単に自己実存の(最終的な)正当化だけを目指しても、結局普遍的な考えにはならない。
個的リアリズムは、否定されるものではないが、それは個的空間、心情を共有できる空間で成立する話であり、共同空間ではある程度制約を受ける。
リアリズム自体は、個別事例であり、正当な普遍性があるというわけではない。深い体験をもつこともあるが、だからその体験に普遍性があるということでもない。あくまで個的なものを普遍化しようとすると、様々な個物による対立的矛盾が生まれることが普遍的である。関係する空間においては、無制限の自由とは、単に自己絶対化となる。
普遍知でない限り、あいまい(派閥的)な心情の共有が限界となる。それは文学においても芸術においてもそうであるが、本質的なものでない限り一般論としては限界をもつ。それは否定されるということではなく、普遍(理論)にまでは至りにくいということである。
哲学理論はなくても生きていけるし、一般社会でそこそこ暮らすにはほとんど関係がない。しかし、数理がそれに興味をもったり、それに関係する研究や作業に(遡れる)意味を内包しているように、(基礎)哲学も本来そうしたものとして準備されているべきもの、であるような気もする。一時の声高な煽りに(あれは何だったのかと)疑問をもったときに興味を持つ(平凡ともいえる)理論かも知れない。
哲学は、誰かに特権を与えるものでも所有のものでもなく、文学や芸術のような作品でもない。権威づけや人を見下すため、ハッタリに利用されるアイテムではない。誰でも洞察できる原理を提供するものであり、理想と現実は離れがちとはいえ、本来そうしたものと思われる。
理論(哲学)的な問題は、理論(哲学)的にしか解決されえない。理論的な問題を理論以外で解決しようとしても自己矛盾となる。
数理は、現実(偶然事実)に接することはなく、理念として完結する世界である。それは一般的理念として、誰にでも洞察可能な普遍的なものである。
数理と同様に「真に(基礎づけられた)原理的なもの」というのは、誰かの恣意によって動くものではない。誤りや更なる充実の可能性については避けられないとしても、恣意で原理は歪められない。「解釈」というのは妥当性において相対性がつきまとうが、根本原理的なものは動かそうとしても、ある「解釈」をごまかせるだけであり、原理が動くわけではない。
文学、芸術は(事例的なもので)解釈の余地が多分にあり、そのことが性質上本質的である。数理は解釈の余地がないことが本質的である。哲学はそういうことを区別することが本質的ともいえる。
ブリタニカ草稿(最終稿)第9節 [読解シリーズ]
【超越論的還元と、主観の二重性】
○我々の主観は、「心理的な主観」として、また「世界を構成する超越論的な主観」として、二重の主観性をもつ
○心理的な主観とは、日常の「私」や「我々」のことであるが、心理学的還元により、心理的な意味となる
○心理的な主観は、形相的に変更する(本質論に移行する)とき、現象学的心理学のための地盤となる
○他方で、超越論的主観性とは、この「私」や「我々」と別のものではないが、日常や実証科学という自然的態度で見出されるものでもない
○超越論的主観性とは、目の前に存在するものが一定の統覚により、「作られて」くるという意味での主観である
○「人間としての私」は、超越論的な私にとって存在している
○つまり「人間としての私」は、多様な意識の働きによって「現れるもの」である
○「人間としての私」は、実在的な意味での自我や私を前提しているが、「超越論的な私」は実在的な意味では存在しない
一般に言われる「私」や「私の心理」や「私の身体」や「我々」というものも、超越論的に構成されたものである。超越論的な志向性というのは、普段は意識されないで背後に隠れている「意識の働き」である。従って、「私」や「私の心理」や「私の身体」や「我々」もその「働き」によって構成されて、意識に「現れる(現出する)」ものである。
○超越論的還元は心理学的還元の上に積み上げられたものである
○どんな世界も超越論的な自我にとって相対的であり、超越論化は、世界の括弧入れも、心の括弧入れも、その心に関係する現象学的心理学の括弧入れも要求する
○この括弧入れにより、心は「超越論的な現象」に変わる
○超越論的現象学者は、心理学的な主観性を、超越論的に純粋な主観性に還元(転換)する
○超越論的に純粋な主観性は、世界を妥当しながら、「実在的な心」も客観化する
○世界の統覚、私の心の統覚、知覚体験の統覚、これらは私の志向的生の中で形成されているものである
○超越論哲学者は、意識の世界化(意識を世界の中の実在的なものとしてみること)さえも、断固として差し止める
○それにより超越論的な内的経験は、超越論的に純粋なものとして直観され、果てしない超越論的な存在の場を開く
「超越論的な意識」は、心理を含めて実在性を一切もたないのであり、実在性は構成される相対的なもの(客観化されたもの)となる。
このことを理解すると「第7節」で述べられた循環の問題はクリアになる。
(但し、少し難しい)
(1) 「私の意識」により「世界」が構成される。
(2) しかし、「世界」の中に「私の意識を含んだ私自身」が属する。
ここで、「意識」→「世界」と「世界」→「意識」となり、この問題は循環する。
しかし、(1) の「世界」とは「構成された世界」である。従って、(2) での「世界」の中の「私の中の意識」も「構成された意識(つまり構成された心)」である。上に述べられているように、超越論的な意識の働きは「実在性」をもたず、「構成するもの」である。従って循環問題は解消されていることになる。
少しわかりにくいかも知れないが、次のことが基本になる。意識は、「ノエシス(意識作用、働き)」(A)と「ノエマ(意識相関者)」(B)に区別される。(A)と(B)ははっきりと区別されるのであり、混同してはならない。(1) の「世界」はノエマ側の「構成されたもの」(B)の領域であり、(2) の「私の意識」も「世界」の中にあるので「構成されたもの」(B)の領域である。
循環するとなると、(2) の「私の意識」が(1) の「ノエシス(構成する意識)」と「同一のものである」と捉えることで発生する。こうなると「構成するものと構成されるものが同一になり」論理は循環する。しかし、「構成されたもの」(Bの領域)に「構成する働き」(Aの領域)を含めるのは、超越論的構成の原理(ノエシス-ノエマの原理)に矛盾し、誤りである。
「構成されたもの」はあくまで「構成されたもの」の側にある。例えば、「他者の意識の中で世界が構成されている」ことが私の中で意識され(構成され)ているとしても、それはあくまで、「構成されたもの」の側(Bの領域)で二重な意味としてあるだけである。原理的には「構成されたもの」の側で無限に多重化される。しかし、それはあくまで私の「構成されたものの中でのこと」である。
「構成されたもの」の側では、どこまでも多重な意味として展開されることは可能であり、それは「論理」が無限に展開されていくこととも同じような構造にある。「論理」は閉じたものではなく、論理問題は超越論的主観性(超越論的論理)の考慮が必要である。
上記のことは重要な意味をもち、現象学的還元の根幹であり、哲学問題を解消していく意味を含んでいる(が、理解されにくい)。
超越論的な構成の原理(「ノエシス-ノエマ」「作用(働き)-相関者(相対)」)を基本にしないと、認識論は、根源まで問いつめると、循環問題、パラドックスに追い込まれる。
※私の中で世界は多重化されて構成されるが、次の点に注意が必要である。私の(独我的)世界構成は、「直接の知覚」と「直接の知覚の経験化(過去化、記憶化)したもの」と「経験をもとに想像・推測したもの」など多様な意味をもつが、(私の中で構成される)他者の世界構成は、前の二者(知覚によるもの)は与えられないので、(言葉や振るまいなどからの)推測的なものとして弱い意味しかもたない。
○この超越論的な存在の場は、心理学的な場と平行関係にある
○超越論的-現象学的還元が、心理学的-現象学的還元と平行関係にあるのと同じである
○超越論的自我ならびに超越論的な共同体も、心理学的な私ならびに我々と平行関係にある
○従って、超越論的自己経験は、単なる態度変更により、いつでも心理学的自己経験に変化することができる
○超越論的な経験領野と心理学的な経験領野は、存在意味を相互に内包する関係にある
○超越論的現象学と心理学的現象学も同じ平行関係にあり、両者は暗黙のうちに互いを包含しあっている
○心理的な間主観性も、超越論的に還元されると、平行関係にあるものとして超越論的な間主観性となる
心理の中の共同体も、超越論的な意味での共同体に相互転換できる。
○超越論的な間主観性は、自立した絶対的存在基盤であり、全ての超越的なもの(実在の世界)
は、ここから存在意味を汲み出す
○そうした存在意味は、志向的統一体としての存在意味であり、超越論的な意味付与や、調和的な確証、残存し続ける確信の習慣性に由来する
超越論的還元は、まず心理学的還元(心理学的な意味での心への還元)を経て、超越論的に還元されないと、その還元の理由が分かりにくい、とフッサールは考える。
超越物をエポケーして、世界経験や内的経験は「心の領域」で起こっているのだから、それに還元する「心理学的還元」という段階があり、次に、その「心の領域」も「意識の構成的な働き」により生じているのだから、それに還元する「超越論的還元」という段階がくる、ということになる。
しかし、超越論的な思考を理解すると、心理学的還元の段階というのは逆に理解しにくくなる(上記のように更に難解になる)可能性が高く、ここにはあまりこだわる必要はないと思われる。
(現象学的心理学についての考察を深める場合に、上記のことは重要となる)
ブリタニカ草稿(最終稿)第8節 [読解シリーズ]
【超越論的循環の解決】
○現象学的還元により、意識の本質的な性質が露呈される
○それは、理性や世界の全ての形態を含む
○また、調和的な経験により「自体的に存在する」ように見える世界の形態も、理論的に規定される世界の形態も全て含む
○このことから、現象学的心理学は、存在と意識の相関性研究の場となる
○しかし心理学は、世界の中の心と心的共同体を探求する「実証的学問」である
○現象学的還元は、それが心理学的な還元にとどまるならば、実在としての心理的なものや世界の存在意味を手に入れるにすぎない
○心理学者は、たとえ現象学者だとしても、心を、世界の中に存在する人間や動物の心として取りあげる
心理学的還元は、現象学的還元(超越論的還元)の前段階と言われる。心理学的還元において、還元は「実在的な世界の中の、実在的な心」への還元にとどまるからであり、ここではまだ超越論的な構成の構造は見出されていない。
○しかし、超越論的な関心を原理とするなら、心理学は超越論哲学に対していかなる前提にもならない
○超越論的な問いにおいては、疑わしいものと疑いえないものの領域は区別しなければならない
○世界や世界のカテゴリー(事物や人間や動物)に対応して、意識というのは規制されている
○世界全体の存在意味が、一般的に、また個々のカテゴリー全てに関して、明らかにされるべきである
○超越論的な問いは、疑いえない存在の地盤を前提とするものであり、その地盤とは、意識の主観性である
○疑わしい領域とは、超越論的に素朴な領域であり、自然的態度での世界である
○従って全ての実証科学は、エポケーされないといけないのであり、実証科学の領域についても、心理的なもの全てについても、同様である
○それゆえ超越論的な問いに答えるのに心理学を支えにするのは超越論的循環になり、経験的な心理学を支えにしても、形相的-現象学的な心理学を支えにしても同じである
「超越論的な構造の問い」を「心理学(心理学的な心)」で基礎づけすると、その「心」も理論的な疑わしさをもつのであり、結局更に、(超越論的に)理論として問わなければならなくなり、循環する。心も含めて、実在的なものというのは超越論的に(本質論=理論として)問わねばならないのであり、超越論的なものを「心理学的な心」で問うてはならない。
つまり、実在的なものは全て(超越論的)本質論(=理論)として問わないと背理(循環)に陥るということである。一般に実在論は背理である。
ブリタニカ草稿(最終稿)第7節 [読解シリーズ]
【超越論的問題】
○超越論的問題というのは、世界の全てを問うものであり、問題を普遍的(理論的)な問題として転換する
○自然的態度では、世界はいつもあらかじめ与えられているものとして、実践的、理論的な活動の場となっている
○しかし、超越論的に問うとき、世界は、この意識の中だけでの「唯一の」世界となる
○世界が我々にとってもつ意味とは、生の中で主観的に形成される意味である
○我々の中ではいつも存在妥当(存在の調和的な確信)が遂行され、経験や理論は、どんなものであれ、我々を生き生きと習慣的に動機づける
○このことは「それ自身で存在している」と思われている世界でも同じことであり、世界の規定は我々の中で遂行される
○しかし世界が、意識の中での「唯一の」世界としてのみ現れるなら、世界の存在様式の全ては不可解で疑わしさをもつようにみえる
○認識されることのないまま曖昧に沈んでいる多様な意識において、世界が「それ自身で存在するとして現れる」「単に思念されたものではなく、調和的な経験として現れる」のはいかにしてなのか?
世界は、この意識の中で「現れるもの」でしかない。しかし、それが「自体的にある世界」「コロコロ変わることはない調和的な世界」として、我々に現れているのは何故なのか?
○この問題は理念的な世界(数や真理)にも移される
○だが、こうした不可解さが特に目立つのは自分の存在である
○我々の意識の中で、実在的な世界は意味と妥当をもつ
○しかし、我々自身も世界に属している
○我々が世界の中に存在するなら、再び意識に戻されることになる
○この意識の中でのみ、この意味が形成されるのなら、これを解明する以外に道はない
ここで言われているのは、次のことである。
(1) 「私の意識」により「世界」が構成される。
(2) しかし、「世界」の中に「私の意識を含んだ私自身」が属する。
こうなると、「意識」→「世界」と「世界」→「意識」となり、この問題は循環する。
これを解決するには、やはり意識の中でこの意味が形成されるので、それを解明しよう、ということである。
○世界は意識相対的なものである
○それは、現実の世界だけでなく、形相(本質)的な必然性として、どんな世界についても言える
○空想により今この世界を変更してみると、環境世界にいる私自身も一緒に変更されることになる
○変更の度に私は可能な主観性として変化するのであり、環境世界は可能的な経験の世界、理論的明証の世界、実践的生の世界として変更される
○こうした変更は、理念的な世界に手をつないでおくものであり、それは、世界を変更しても本質は不変だからである
○主観が変化の可能性をもつということは、認識は事実(現実)的な主観性だけに結びついているわけではない、ということが示されている
○問題を形相(本質)的に把握する時、意識研究も、形相(本質)的な研究に変化する
今、我々は目の前にある世界を経験している。しかし異なる世界経験を想像しても、我々の認識というのは同一の構造をもつ部分がある。この「現実世界(事実世界)」だけでなく、想像し変更した「可能的世界」を考えることにより、それでも不変の「世界に対する認識構造」を研究することは、自我構造の本質(理論、普遍)的な研究となる。
こうした形相的還元(本質論への移行)により、普遍(理論)的な考察が可能となる。
ブリタニカ草稿(最終稿)第6節 [読解シリーズ]
【デカルトの超越論的動機とロックの心理学主義】
○現象学的心理学は、超越論的現象学の前段階として役立つ
○超越論的現象学の歴史は、デカルト、ロック、バークリ、ヒュームなどに遡る
○デカルトの「全ての実在や世界は、我々の表象内容として、思念された世界、明証的世界としてあるに過ぎない」という認識、これは第一哲学を指導する
○ここには問題はあっても、超越論的問題に向かう動機があった
○デカルトの懐疑や「我思う」は、超越論的主観性の把握に導いた
○ロックは、内的経験に基づく心理学によって心理学主義を基礎づけた
○心理学主義は、原理的な矛盾が克服されることで、心理学主義がもつ超越論的な核に果肉が与えられる
心理学主義とは、数学や論理も心理的に生み出されたものとして扱い、客観的な理念を否定する立場。
○主観的なものというのは、二義性(心理学的、超越論的)をもち、それは同時に平行するのであり、このことを理解することで心理学は純正な哲学に接近する
このことについては以降の節を参照。
ブリタニカ草稿(最終稿)第5節 [読解シリーズ]
【現象学的心理学と経験的心理学】
○「精密さ」を目指す経験的心理学は、自然科学の手法を手本にした
○しかし、経験的心理学に必要な基礎は、実は現象学的心理学である
心理学は、一般的には、経験の「観察結果」から法則を立てるが、それは学問として基礎づけられているものではなく、曖昧で統計的な「経験知」である。
○自然科学は、自然を思考可能なものとして形式体系化し、純粋な学科(純粋幾何学、純粋時間論、純粋運動論など)により基礎づけられている
○この形式体系を自然に適用することにより、曖昧な経験知は本質必然性に関係することになり、曖昧な概念の代わりに、合理的な概念や法則を獲得する
○しかし、自然科学だけでなく心理学も、厳密に「本質的な」合理性から研究することが可能である
○アプリオリな類型性は、心の研究にまで適用できる
○心理物理学的なアプリオリは、一方で物理的な自然を前提しているのと同様に、他方で現象学的心理学のアプリオリを前提している
○現象学的心理学の構築するには、次のような分析を行う
○(1) 志向的体験一般の本質の研究(例えば、意識と意識の結合は全て一つの意識を生じる、などの総合化機能の法則)
○(2) 志向的体験の個別形態の研究、様々な総合化機能の本質類型性の研究
○(3) 心理的生一般の形態の証示、意識流の本質的あり方
○(4) 自我の研究、自我の習慣性の本質形式、持続的な「確信」(存在確信、価値確信、意志決定など)をもった自我の研究、習慣性や知や性格特性をもった人格的主観としての自我の研究
○「静態的」本質記述は発生の問題とつながり、本質的な法則により生と自我の発展を支配し続ける発生へとつながる
○第一段階としての「静態的現象学」から、高次の「動態的、発生的現象学」へと展開される
○発生的現象学は、最初に受動性の発生を扱い、能動的なものとしての自我は関与しない
意識の機能を、受動と能動に分けるとすると、能動とは、認識や決定、判断など自我の能動的行為を指し、受動とはそれ以前に意識に与えられるものを指す。
○ここには連合の現象学という課題があり、ヒュームの連合の発見を復権させる
連合とは、(受動性の領域での)様々な連想、統一化する機能のことである。
○実在的な空間世界が習慣的に構成されるのも、アプリオリな発生に基づいてであり、こうした発生の問題を扱う
静態的現象学というのは、「イデーン I」に見られるように、時間的なものを考慮に入れず、超越論的構成を「完成形として」扱うことである。
発生的現象学は、時間的なものを考慮に入れ、自我が受動的な機能から能動へと展開していく過程を時間的に捉える。また過去から現在、未来へと「成長していく」自我の問題を扱う。
○これに続くのは、人格的習慣性の発展の本質論である
○心理的自我は人格的自我として不変な構造をもち、習慣的な継続の中でいつも自己形成し続けている
人格は習慣的な継続の中で作られていく。
○さらに高次な段階として、理性の静態的現象学、発生的現象学がある
ブリタニカ草稿(最終稿)第4節 [読解シリーズ]
【形相的還元】
○経験は、事実性から本質(形相)へ普遍的に移行できる
○事実・経験を一例として、それを叩き台に、自由にそれを想像により変更していく
○理論的なまなざしが、その中の不変のものに目を向けると、アプリオリな領域が現れる
○すると、必然的な「本質」が浮かび上がり、全ての人を貫いている「本質」を観て取ることができる
○物体知覚の現象学とは、一つの事例的な知覚についての報告ではなく、それなしには物体の知覚が考えられないような「不変な知覚の構造体系」を明らかにすることである
例えば、「音の知覚」の「本質」を取得するとは、ありとあらゆる「音の知覚の例」を遂行、想像(変化)し、その中のどれにも共通する不変的な構造を洞察することである。それを言語により確定すると、その記述はどの「音の知覚」にも当てはまるはずである。
○現象学的還元が、内的経験という「現象」への通路を作り出すとすれば、現象学的還元に基礎づけられた「形相的還元」は、心理的領野の不変な本質形態への通路を作り出す
現象学的還元(超越論的還元)は、超越物をエポケーして、一切を主観内の超越論的な構造をもつ「現象」として扱うことである。
形相的還元は、現象の中の個別の事実性(各事例)から、共通する本質を観て取る、共通する本質へ還元する、ことである。
「事実から本質へ」が形相的還元(あるいは本質直観)である。
それにより、事例的なものでなく、普遍的な考察が可能になる。
ブリタニカ草稿(最終稿)第3節 [読解シリーズ]
【現象学的還元と内的経験】
○本当に純粋な経験を洞察するときには「現象学的還元」という方法が必要となる
○この方法は、純粋心理学の根本的方法であり前提でもある
○難しいのは、実在的なものと心理との絡み合いについてである
○「外的なもの」は、内在に属していないが、その経験は「外的なもの-についての経験」として内在に属している
パソコンなどの外的事物は「内在」と呼ばれる意識の流れの中に属していないが、「パソコンについての経験」は「内在」に属している。
○現象学者は、意識の純粋現象を獲得したいならば、「外的なもの」にエポケー(判断中止)を実行しなければならない
○現象学的反省を行うときは、客観的措定を禁止し、端的に世界が存在すると「判断する」ことを禁止する
○しかし、そのつどの経験は「○○についての経験」として残り、「○○」自体の措定がエポケーされるだけである
○志向的体験を記述することは、幻想体験であれ、無の判断であれ、「意識されたもの」なしに記述することは不可能である
○エポケー(世界の括弧入れ)は、端的に存在する世界を、現象学の場から遮断する
○しかし、世界は「かくかくに意識された世界」「括弧に入れられた世界」として登場してくる
○また世界的なものの代わりに、そのつどの意識意味(知覚意味、想起意味など)が登場してくる
○自然的態度で存在すると措定された統一体(対象的なもの)も、多様な意識様式と分離できないものとして、心理の中にあり、その統一体はそのつどの現出する性格をもつ
○従って、現象学的還元は、次の方法により成り立つ
○(1) 心理的領野において客観的存在の措定をエポケーすること
○(2) 多様な「現出」を「対象となる統一体の現出」として把握、記述し、また付着する意味成分をもった統一体として把握、記述する
○それと共に、「ノエシス的(意識作用)」「ノエマ的(意識対象、意識相関者)」と呼ばれる現象学的記述の二重の方向性が示される
○現象学的還元の方法の中にある経験が、唯一の純正な「内的経験」である
○その内的経験により、方法的に純粋性を保ったまま、現象学的解明を無限に進めることができる
○つまり、還元という方法が、自己経験から他者経験に移されることにより、他者の生も、他者の主観として「ノエシス」「ノエマ」を記述出来るからである
私の超越論的領野の中で、他者も自我をもつ他者として構成される。
○共同体経験は、個人の領野だけでなく、間主観的な共同体の生としても還元(間主観的還元)される
私の超越論的領野の中で、各個人の主観を結びつける共同体も構成される。
○心には、意味統一体だけが属しているのではなく、自我も属し、この自我は全ての志向性を中心化する「自我極」であり、生きている中で、いつもそこに帰ってくる習慣性の担い手でもある
○それゆえ、還元された間主観性とは、活動する共同体のことである
ブリタニカ草稿(最終稿)第2節 [読解シリーズ]
【経験における心理的なものと志向的体験の記述】
○純粋心理学を基礎づけ展開するためには、経験の中の心理的な性質を解明することが必要であり、それには直接的な経験の解明が優先される
○経験は全て、まなざしを心理的なものに向け換えることにより、反省的に観ることができる
○思考や評価や意志することも、反省できる
○反省せずに活動をしているとき、まなざしの中にあるのは、そのつどの事象や思想や価値や目標という「対象的なもの」である
○しかし、その「対象的なもの」を生み出す「意識の働き自体」はまなざしの中にはない
自然な態度では「意識の働き自体」はまなざしの中になく、その「対象部分だけ」まなざしの中にある。
○反省して初めて「意識の働き自体」を開示できる
○反省により、事象や価値や目的という「対象的なもの」だけでなく、それに対応する主観的な体験を把握できる
○「対象的なもの」は、主観的な体験の中で意識され「現出する」
○主観的な体験全体は、「現象」と呼ばれる
○主観的な体験の本質は、「何か-についての-意識」「何か-についての-現出」ということである
○すなわち、そのつどの事物「についての」意識・現出であり、思想「についての」意識・現出であり、計画や決断や希望「についての」意識・現出である
○だから心理的体験を表す表現には、「何か-についての体験」として相対性が含まれる
○この「現象」の領域が、「現象学的心理学」の領域である
○この「現象」の根本性格を表すのが「志向性」である
○現象学的に反省すれば、対象に「向かう」という「志向性」が体験に内在する本質であることがわかる
○体験は「志向的」体験である
○体験は多様な種別や区別があるが、志向性という概念のもとに包摂される
○ある事物を見る場合、左右、遠近により新たな位相が絶えず現れてくる中で、同一の対象についての統一的な意識が樹立されている
○判断、価値、目的、手段なども対応する堅固な本質構造をもち、流れる意識の中で構成される
○心理学の課題として、志向的体験の類型的形態、その変容、志向性による構造的形成、これらの問題を体系的に研究し、体験全体、心的生を記述的に認識するという課題がある
○この課題を最後まで追求するなら、一人の心理学者だけではない普遍的な成果が得られる
○心的生は、自己経験だけでなく、他者経験を通しても理解可能である
○他者経験は、自己経験と同類のものを与えるだけでなく、新たなものも与える
○この新たなものが、我々全員の共通のものだけでなく、「自身のもの」「異なるもの」の区別を与える
○そして、共同の生も、現象学的に理解するという課題があらわれる
ブリタニカ草稿(最終稿)第1節 [読解シリーズ]
○現象学は、19世紀から20世紀にかけて、世紀の転換期に登場した新たな哲学である
○この学問の使命は、厳密な哲学の原理を提供することであり、全ての学問の方法的改革を可能にすることである
【純粋自然科学と純粋心理学】
○心理学は、私と実在との関係の中で「心的なもの」を扱う学問であり、心的な体験や能力、習慣を扱う
○心理学は、具体的な人間学や動物学の一部門である
○しかし、動物的な存在は、純粋自然科学の主題として物理的な存在でもある
○純粋自然科学は、一面的であり、実在の物理的規定以外を全て無視するような客観主義的自然科学である
○生命体は物理的特性より心的な特性を主題となるならば、純粋自然科学と平行して純粋心理学というものが考えられるが、それはどの程度まで可能だろうか
○純粋心理学の理念が、どこまで正当性をもつのかは未だ明らかになってはいない