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永遠回帰 [ニーチェ]

永遠回帰、これも扱いにくい概念である。

「一切は死に、一切は再び花開く、存在は永遠にめぐる」

「お前がうんざりしているその人間が永遠に繰り返しやってくる」

「一切の事物が永遠に回帰し、私たち自身もそれにつれて回帰する」

「私たちは無限の回数にわたって存在していた」

「多くの原因を結びつけて私というものを作り出している結び目、その結び目はまた私を作り出そうとするだろう」

「「これが人生というものであったのか?」私は死に向かって言おう「よし!それならもう一度」」

「全てのよろこびは万物の永遠を願う」

「喜びは自己自身を、永遠を、回帰を、一切のものの永遠の自己同一を欲する」

「かつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか?」

「そうだったら、全ての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ」

「万物は鎖で繋ぎ合わされ、糸で貫かれ、深く愛しあっているのだ」

「一度のことを二度あれと欲したなら、一切が戻ってくることを欲したのだ」

「嘆きに対しても言うがいい。「終わってくれ、しかしまた戻ってきてくれ」何故なら、全てのよろこびは、永遠を欲するからだ」

(以上「ツァラトゥストラはこう言った」)

「万物は何の制約も受けず無限に循環を繰り返す」

「過去に起こったことまでも、全ての「あった」を「私がそう欲した」に作りかえること、これがはじめて救済と呼ばれるものである」

(以上「この人を見よ」)

「意味や目標はないが、しかし無のうちへの一つの終局をも持たずに不可避的に回帰しつつあるところの、あるがままの生存、すなわち「永遠回帰」」

「これがニヒリズムの極限的形式である、すなわち、無(無意味なもの)が永遠に」

「全てのものが回帰するとは、生成の世界の存在の世界への極限的近接」

「もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、全ての生存に対して然りと断言したのである。それだけで孤立しているものはないからである」

「既に無限に反復された、無限にその戯れを戯れる円環運動としての世界」

「全く等しいおのれの軌道と年月を辿りながらも自己自身を肯定しつつ、永遠に回帰せざるをえない」

(以上「力への意志」)

一般的に「永遠回帰」を解釈すると次のようになるだろう。

生は無目的であり、流れの中で、ただ同じ事が繰りかえされていくだけである。一切万物(私も他人も事物も世界も)が無目的な生成により、同じ繰り返しの円環運動にあり、ただ我々は一つの結び目から生まれたものとして存在しているだけである。生とは嘆きを含めて只あるがままにあるだけである。

しかしそれに対して我々は「それを欲する(Yes)」と言ったとき、全的に生、一切は肯定される。何故なら、鎖で繋がった繰り返す全ての(嘆きを含めた)生存に対して「Yes」と言ったからである。これこそ、決断的意志による生の最終的な肯定であり救済である。

何となくわかったような気になる話である。
しかし、よくよく考えていくと何か違和感を感じるのではないだろうか?

例えば、「人生とはあるがまま(同じ事が繰り返される)」(a)と言った場合に、この言葉(a)を否定するのも「あるがまま」の人生の一部である。であるならばこの言葉は矛盾を抱える。つまり(a)かつ(Not a) であり(a)の命題は成立しない。

などとパラドクシカルである。

基本的に、永遠回帰の問題は「一切は永遠に繰り返す」と「欲する」の次元の違いにある。前者は「世界一切」を俯瞰している。つまり客観視点に立っている。後者は私の視点、私の実存的なものであり、それを同列に扱うことに問題がある。

もし、前者が「私の視点」なら「一切」とは「私の認識作用」は除外された対象的なものとなり、「一切」とは何を指しているのかあいまいになる。そして「一切は永遠に繰り返す」というのは、そのように見えるだけであり、それはニーチェの言う「解釈」の一つに過ぎない。

構造的な問題としては、「欲する」というのは「繰り返される同じ事」のうちにしかないはずであるが、それを超越した立場で発せられるところにある。

「全的に生を肯定する(欲する)のか、否定する(欲しない)のか」というのは何か究極的な二者択一の問いである。それは「ニヒリズムを克服するか」「ニヒリズムに屈するか」という究極の所での選択にみえる。

対象的な生はそのつど、肯定的になることも、否定的になることも、どちらでもないこともあるだろう。肯定的であればそれに越したことはない(が、単なる独断的な肯定気分もあるだろう)。私が否定的だからといって他者もそうでなければいけない理由はなく、その逆も然りである。生に対して比重が「否定」に傾き、「ルサンチマン」や「ペシミズム」として常態的になっているとき、「生を欲するか否か」という問いは意味をもち始める、ということではなかろうか。ただ今日「欲す」としても、明日も、今後もずっと「欲す」でなければいけないとするとこれも困難である。生に対する意欲を回復するおまじないと受けとるべきなのか・・・

永遠回帰は論理的に不十分さを抱える。従ってどう解釈しようと、一時的な文学的フィクションにとどまり、やがては疑問が立ち現れるのではなかろうか。「世界」と「1実存」を同次元で考える危うさももっている。


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ニーチェのニヒリズム [ニーチェ]

ニーチェは端的に語りにくい。
熱心な読者ではないので限定的に書いてみる。

今更ながらニーチェを読んでいると、実に多くの人がニーチェの影響やニーチェを模倣しようとしていたのか思い知る。彼の言葉は、鋭い洞察も多々見られるが、問題となる部分もあり、一概に論じにくい。

観念的なものと実存的なもの、事実世界的なもの、文学的なものが混在して語られ、少し整理が必要である。

ニーチェの哲学的限界に解を求めるよりも、それを「本質的に解き放つ」ことに意味があるように思える。それにより彼の意図が汲みつくされるはずである。

「ニヒリズム」「永遠回帰」についてだけ考えてみる。

【ニヒリズム】

ニーチェと言えば、ニヒリズム。ペシミスティックな受動的ニヒリズムでなく、進んでそれを受け入れる能動的ニヒリズムを説いた。

しかし、ニーチェのニヒリズムというのは、生の究極的な目的が「ある」か「ない」か、という問いに収斂され、「ない」からニヒリズムをどう生き抜くか、という形になってしまっている。

我々は、持続的な事であれ、数分しかもたないようなささいな事であれ、ある「目的」をもつ。それは「自我構造-と相関的な-目的」という形での目的である。自我構造はある意味で絶対的に(不変という意味ではなく、中心的役割として)あり、目的は相対的である。その目的というのは、持続性もあるが、そのつど変化するものである。そしてその目的は達成されることも、されないこともある。「目的は相対的」なのに、その目的に究極的な「不変の意味」を求めると、それが「ある」か「ない」かという選択になってしまう。

目標や目的は変わるし、無目的になることも、ニヒリスティックな気分になることもある。不変的な「目的」の希求は「超越者」に進むか、「ニヒリズム、相対主義」に陥いるかどちらかになりやすい。

相対的なものでしかないのに「不変の究極目的」を求める哲学、宗教は問題であり、ニーチェはそこを突いた。しかし究極目的が「ある」という解答が誤りだから、「ない」究極目的の上でそれをどう耐え抜くか、という解答も二元論的で反動的にとどまる。この両論を聞いて、実感として違和感を感じる人も多いと思うが、それにはそれなりの理由があるのだ。

「対象的な意味」を追い求めても、それ自体が「そのつど性」を逃れない。それは習慣性をもち、ある期間で持続性をもつだけである。しかし、そのつど持続的に意味、目的を持つことは生のアプリオリであり、それを否定することは単なる倒錯である。

つまり、「対象的な意味」は相対的であるが、「意味を生み出す作用、働き」はアプリオリであり、それは生の条件である。「意味の内容」は相対化できても、「意味する」ことは相対化できない。

全てを相対化しようとしても、相対化しようとする意識の働き自身は相対化できない。意識の働き自身を相対化しようとしても、新たに相対化しようとする意識の働きが生まれるだけである。もしそれを徹底化するなら死(または睡眠、意識喪失、意識破壊)しかなく、それは根本的に倒錯している。

目的論を真に目指すなら、フッサールのように「自我構造」自身に内在する傾向の洞察としての目的論でなければならない。しかしそれは難問であり、容易なことではない。

ニーチェも「無目的な生成」「力」ということで、生に内在する志向を捉えようとしていたが、道半ばである。


人は「人生は無意味」と言ったりする。しかし「人生は無意味」という言葉が「意味」である。
目的を否定する人は「目的を否定すること」を目的としている。

ニヒリズムは克服するものではない。
ニヒリズムは超越論的な構造の理解不足である。


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