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タイムマシンと時計 [科学系]

「タイムマシンは可能か?」を(何故かしら)考える。

まず、タイムマシンは客観主義的な時間軸を前提している。
あるいは、主客二元論、主観-客観の構図として「主観を離れた客観時間(過去-今-未来)」を前提している。

従って、このような立場が「背理」であれば、話を進めても意味がない。
背理から始めても、いくらでもパラドックスは現れる。

つまり「今しかない」ということである。
(現象学的な「生き生きとした今」「超越論的な意味での今」のことである)
過去とは「今」における「過去意識」であり、未来とは「今」における「未来意識」であり、意識と分離した時間を考えることは、自体的な「客観」を前提している。

全ては目覚めた意識でのことであり、主観と分離できない。更に「意識の流れの中にある内在的な時間意識(内在的時間)」と「構成された調和的な客観性をもつ時間(客観的時間)」とは区別される。前者と後者の普段の調和が崩れると、「時間が早く感じた」「時間が遅く感じた」となる。

客観主義的な時間(過去~未来)も、主観的認識(今における認識)を前提している。もし「過去に行く」「未来へ行く」ことが可能なら、その時の「今の意識」とは、一体何を基準とした「今」なのか?その基準はどこから発生したのか?二元論構造を堅持している限りパラドックスは続くのであり、パラドックスはいくらでも作りえる。

わかりにくいのは、先ほどの「客観的時間」の考え方である。それは主観と分離できないとすると、「時計」のような「客観的時間」というのは一体何ものなのか?という疑問が現れる。

今の時計というのは、元々古代からあったものではない。(細かい話は省略するとして)地球が太陽に対して1回転したときを1日と定義し、そして24時間、60分、60秒と分割、それは人間の都合で定義されたものでしかない。そしてその定義に合うように、時計という時間を計るための機器が作られるわけである。

1日の始まりも人間の定義したものであり、ある基準を設けることにより、世界の誰でも客観性(人間にとっての共通性)のある認識を得ることができる。

つまり客観的時間概念も、人間により概念化された「時間」と「計測」により成立している。時計もそれに合わせたものでしかない。時間は時間概念と数値による計測量であり、時間概念及び数値の認識共通性が保たれている限り、「客観的時間」が保証される。

動物にとって客観的な時間(が想定できるなら)とは、日照や季節的なものの知覚による曖昧なものでしかないだろう。それは古代の人間にとってもそうであり、文明が進むにつれ実用性に応じてデジタル化され世界標準化されただけである。

「客観的な時間はない」、のではなく、それは「客観的な空間」と同様に生活空間の中で常態的なものとして「いつでも同じようにある」ものであり、常態的な事実基盤(現象学的生活世界)としてあるものでしかない。しかしそれは「意識」と分離されるものとしては措定できない。

(注)

「1秒の定義」は、地球の自転が周期的でないことにより、現在セシウム原子の振動数により厳密に定義されている。


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ブリタニカ草稿(最終稿)第10節 [読解シリーズ]

【超越論的現象学への準備としての純粋心理学】

○心理学主義が克服されなかったのは、主観の二重性(心理的、超越論的)という問題が明らかにならなかったからである

○形相(理論)的な学問としての心理学はこれまで存在しなかった

○超越論的態度は生活全体の変更をも意味し、その独特の新しさにより必然的に理解されにくいものである

○現象学的心理学は、新しい心理学であるが、実証的な学問と親しい関係にある

○現象学的心理学の学説内容は、超越論的なものにまなざしを向け変えると超越論的現象学として理解される

○現象学の困難は、合理的な心理学として「内的に経験する」ことの意味と、超越論的方法の意味を理解することにある

○超越論的関心こそが、もちろん究極的な学問的関心である

○必要なのは、超越論哲学を自立した体系の中で形成することである

○また、超越論的態度と比較しながら自然的態度のあり方を明確にすることで、超越論的現象学を実証科学に適用する可能性について現象学の中で明らかにすることである

【まとめ+】

現象学が追求しているのは、理論的な問題としての哲学であり、「解釈」的なものではない。理論的というと、現実と遊離しているようにも見えるが、そうではなく、ただ一般本質的なものというだけであり、「いつでも、誰でも、どこでも」という問題を扱う。

時代や地域によって変化するような、事例的な問題や個々のケースとなる「偶然の問題、普遍的に言えない問題、解釈問題、時代的な合意による問題」にはほとんどタッチしない。時間の経過と共に忘れられる問題は、基礎的な意味での哲学の問題ではない。

「解釈」問題は、相対性、時代性、個別性を免れない。それは幅広い意味での哲学の問題であるが、理論として正否を言うことは難しい問題である。言えるとすると、「解釈」の内容ではなく、「解釈」する人間の認識構造ということになる。

「相対性がつきまとう困難な解釈問題、現実問題」の扱いは別課題である。

普遍(本質)的なものと相対(事実)的なものと区別することは哲学の課題であり、現象学は理論的にどこまで押し進められるか、ということである。このことは区別がつかないまま語られがちであり、相対(差異)か、同一か、では遠くへは行けず、(事実と本質についての)原理矛盾を抱え込むことになる。

難解さもあって、現象学は果たして現実の人間に向いているのだろうか、という疑問もある。どうも理解されにくいのは、フッサールの記述の難解さのせいだけではなさそうである。根本的に「生きた自分の問題圏」でないと、全く何のことか「異次元」の話である。基本的には、フッサールの話でも何でもなく、全て「自分の問題圏」にある。

人間に向いているか向いていないか、は本来哲学原理としては問題ではない。難解な数理が、向き不向きではないように、難解さは問題ではない。数学者、哲学者に向き不向きはあっても、数理、哲理に向き不向きは関係ない。(ただ難解なものはわかりやすく一般化するという課題があるだけである)

「凝縮された緻密な難解さ」と「書いている本人もよく理解できていないこと」はある理解がないとなかなか判別できない。現代の難解さの多くは後者であり、専攻に関係なく、意味不明のものから、文学的にカモフラージュされたもの、巧妙に理解されないように画策された難文まで、様々な作為が競われがちである。

そもそも現実とは、偶然の積み重ねであり、人間もそうである。であるならば、普遍的な理念、人間の本質構造などというような現象学の「理論」は果たしてどこまで言いうるのか?それは「いつもの」適当な「まやかし」ではないか、という疑問はありうる。

しかし「現実も人間も偶然の産物」という考えも、「一つの理念」であり、人は懐疑するにしろ、批判するにしろ「事実(相対)的なものも本質的なものとして」論理化している。ある「観念」と「合理性」でしか哲理の批判も批評もなく、それが矛盾を起こさないように根源から組み立てることが可能なら、それは哲学の課題である。

「理性への過信」という言葉も、理性判断であり、ここでは「独断的な合理主義」への懐疑が「理性的に」問われている。「精神性の問題」は理性では問えないということはなく、「一般本質的」なものとして問うことは可能である。「哲学として書く」ことは「一般化」「普遍化」を目的にしているのであり、それを否定することは矛盾となる。理性に否定的な人も、(心情と論理が混乱しがちであるが)暗黙の内に理性を用いていることの洞察が必要である。

論としての「一般本質」しか普遍性は得られない、ということから現象学は「形相的還元」「本質記述」により、理論化、「普遍知」を目指す。

普遍知として困難な問題、難しい問題は、曖昧さをなるべく排除し、その困難な理由が示された方がよい。普遍知として言える領域、普遍知として難しい領域、解釈知の領域、あくまで相対的な領域を区別することは「知」の通りをよくするはずである。

個別の体験や心情、実存という個的リアリズムは、事例性(や時間性)を逃れられないのであり、全てを普遍化することは基本的にはできない。普遍化できるのは、その中の共通部分だけである。

個人の想像や体験というのは、どこまでも無限に「進みうる」というのが本質的であり、「観念のバケモノ」になりうる、ということが本質的である。妄想であれ、個的リアリズムであれ、何ら普遍性、現実性、他者批評性のないものを観念的に押し進めても、一般的なものにはならない。

人は自称で「天才」「超越者」「宇宙人」「予言者」何にでもなることは可能であり、「世界を俯瞰」できる気にもなれるものである。巧妙な言葉で、ある程度複数の人を信じこませることができるならば、一つの勢力になりうる。しかしそれにより、単に自己実存の(最終的な)正当化だけを目指しても、結局普遍的な考えにはならない。

個的リアリズムは、否定されるものではないが、それは個的空間、心情を共有できる空間で成立する話であり、共同空間ではある程度制約を受ける。

リアリズム自体は、個別事例であり、正当な普遍性があるというわけではない。深い体験をもつこともあるが、だからその体験に普遍性があるということでもない。あくまで個的なものを普遍化しようとすると、様々な個物による対立的矛盾が生まれることが普遍的である。関係する空間においては、無制限の自由とは、単に自己絶対化となる。

普遍知でない限り、あいまい(派閥的)な心情の共有が限界となる。それは文学においても芸術においてもそうであるが、本質的なものでない限り一般論としては限界をもつ。それは否定されるということではなく、普遍(理論)にまでは至りにくいということである。

哲学理論はなくても生きていけるし、一般社会でそこそこ暮らすにはほとんど関係がない。しかし、数理がそれに興味をもったり、それに関係する研究や作業に(遡れる)意味を内包しているように、(基礎)哲学も本来そうしたものとして準備されているべきもの、であるような気もする。一時の声高な煽りに(あれは何だったのかと)疑問をもったときに興味を持つ(平凡ともいえる)理論かも知れない。

哲学は、誰かに特権を与えるものでも所有のものでもなく、文学や芸術のような作品でもない。権威づけや人を見下すため、ハッタリに利用されるアイテムではない。誰でも洞察できる原理を提供するものであり、理想と現実は離れがちとはいえ、本来そうしたものと思われる。

理論(哲学)的な問題は、理論(哲学)的にしか解決されえない。理論的な問題を理論以外で解決しようとしても自己矛盾となる。

数理は、現実(偶然事実)に接することはなく、理念として完結する世界である。それは一般的理念として、誰にでも洞察可能な普遍的なものである。

数理と同様に「真に(基礎づけられた)原理的なもの」というのは、誰かの恣意によって動くものではない。誤りや更なる充実の可能性については避けられないとしても、恣意で原理は歪められない。「解釈」というのは妥当性において相対性がつきまとうが、根本原理的なものは動かそうとしても、ある「解釈」をごまかせるだけであり、原理が動くわけではない。

文学、芸術は(事例的なもので)解釈の余地が多分にあり、そのことが性質上本質的である。数理は解釈の余地がないことが本質的である。哲学はそういうことを区別することが本質的ともいえる。


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ブリタニカ草稿(最終稿)第9節 [読解シリーズ]

【超越論的還元と、主観の二重性】

○我々の主観は、「心理的な主観」として、また「世界を構成する超越論的な主観」として、二重の主観性をもつ

○心理的な主観とは、日常の「私」や「我々」のことであるが、心理学的還元により、心理的な意味となる

○心理的な主観は、形相的に変更する(本質論に移行する)とき、現象学的心理学のための地盤となる

○他方で、超越論的主観性とは、この「私」や「我々」と別のものではないが、日常や実証科学という自然的態度で見出されるものでもない

○超越論的主観性とは、目の前に存在するものが一定の統覚により、「作られて」くるという意味での主観である

○「人間としての私」は、超越論的な私にとって存在している

○つまり「人間としての私」は、多様な意識の働きによって「現れるもの」である

○「人間としての私」は、実在的な意味での自我や私を前提しているが、「超越論的な私」は実在的な意味では存在しない

一般に言われる「私」や「私の心理」や「私の身体」や「我々」というものも、超越論的に構成されたものである。超越論的な志向性というのは、普段は意識されないで背後に隠れている「意識の働き」である。従って、「私」や「私の心理」や「私の身体」や「我々」もその「働き」によって構成されて、意識に「現れる(現出する)」ものである。

○超越論的還元は心理学的還元の上に積み上げられたものである

○どんな世界も超越論的な自我にとって相対的であり、超越論化は、世界の括弧入れも、心の括弧入れも、その心に関係する現象学的心理学の括弧入れも要求する

○この括弧入れにより、心は「超越論的な現象」に変わる

○超越論的現象学者は、心理学的な主観性を、超越論的に純粋な主観性に還元(転換)する

○超越論的に純粋な主観性は、世界を妥当しながら、「実在的な心」も客観化する

○世界の統覚、私の心の統覚、知覚体験の統覚、これらは私の志向的生の中で形成されているものである

○超越論哲学者は、意識の世界化(意識を世界の中の実在的なものとしてみること)さえも、断固として差し止める

○それにより超越論的な内的経験は、超越論的に純粋なものとして直観され、果てしない超越論的な存在の場を開く

「超越論的な意識」は、心理を含めて実在性を一切もたないのであり、実在性は構成される相対的なもの(客観化されたもの)となる。

このことを理解すると「第7節」で述べられた循環の問題はクリアになる。

(但し、少し難しい)

(1) 「私の意識」により「世界」が構成される。
(2) しかし、「世界」の中に「私の意識を含んだ私自身」が属する。

ここで、「意識」→「世界」と「世界」→「意識」となり、この問題は循環する。

しかし、(1) の「世界」とは「構成された世界」である。従って、(2) での「世界」の中の「私の中の意識」も「構成された意識(つまり構成された心)」である。上に述べられているように、超越論的な意識の働きは「実在性」をもたず、「構成するもの」である。従って循環問題は解消されていることになる。

少しわかりにくいかも知れないが、次のことが基本になる。意識は、「ノエシス(意識作用、働き)」(A)と「ノエマ(意識相関者)」(B)に区別される。(A)と(B)ははっきりと区別されるのであり、混同してはならない。(1) の「世界」はノエマ側の「構成されたもの」(B)の領域であり、(2) の「私の意識」も「世界」の中にあるので「構成されたもの」(B)の領域である。

循環するとなると、(2) の「私の意識」が(1) の「ノエシス(構成する意識)」と「同一のものである」と捉えることで発生する。こうなると「構成するものと構成されるものが同一になり」論理は循環する。しかし、「構成されたもの」(Bの領域)に「構成する働き」(Aの領域)を含めるのは、超越論的構成の原理(ノエシス-ノエマの原理)に矛盾し、誤りである。

「構成されたもの」はあくまで「構成されたもの」の側にある。例えば、「他者の意識の中で世界が構成されている」ことが私の中で意識され(構成され)ているとしても、それはあくまで、「構成されたもの」の側(Bの領域)で二重な意味としてあるだけである。原理的には「構成されたもの」の側で無限に多重化される。しかし、それはあくまで私の「構成されたものの中でのこと」である。

「構成されたもの」の側では、どこまでも多重な意味として展開されることは可能であり、それは「論理」が無限に展開されていくこととも同じような構造にある。「論理」は閉じたものではなく、論理問題は超越論的主観性(超越論的論理)の考慮が必要である。

上記のことは重要な意味をもち、現象学的還元の根幹であり、哲学問題を解消していく意味を含んでいる(が、理解されにくい)。

超越論的な構成の原理(「ノエシス-ノエマ」「作用(働き)-相関者(相対)」)を基本にしないと、認識論は、根源まで問いつめると、循環問題、パラドックスに追い込まれる。

※私の中で世界は多重化されて構成されるが、次の点に注意が必要である。私の(独我的)世界構成は、「直接の知覚」と「直接の知覚の経験化(過去化、記憶化)したもの」と「経験をもとに想像・推測したもの」など多様な意味をもつが、(私の中で構成される)他者の世界構成は、前の二者(知覚によるもの)は与えられないので、(言葉や振るまいなどからの)推測的なものとして弱い意味しかもたない。

○この超越論的な存在の場は、心理学的な場と平行関係にある

○超越論的-現象学的還元が、心理学的-現象学的還元と平行関係にあるのと同じである

○超越論的自我ならびに超越論的な共同体も、心理学的な私ならびに我々と平行関係にある

○従って、超越論的自己経験は、単なる態度変更により、いつでも心理学的自己経験に変化することができる

○超越論的な経験領野と心理学的な経験領野は、存在意味を相互に内包する関係にある

○超越論的現象学と心理学的現象学も同じ平行関係にあり、両者は暗黙のうちに互いを包含しあっている

○心理的な間主観性も、超越論的に還元されると、平行関係にあるものとして超越論的な間主観性となる

心理の中の共同体も、超越論的な意味での共同体に相互転換できる。

○超越論的な間主観性は、自立した絶対的存在基盤であり、全ての超越的なもの(実在の世界) は、ここから存在意味を汲み出す

○そうした存在意味は、志向的統一体としての存在意味であり、超越論的な意味付与や、調和的な確証、残存し続ける確信の習慣性に由来する

超越論的還元は、まず心理学的還元(心理学的な意味での心への還元)を経て、超越論的に還元されないと、その還元の理由が分かりにくい、とフッサールは考える。

超越物をエポケーして、世界経験や内的経験は「心の領域」で起こっているのだから、それに還元する「心理学的還元」という段階があり、次に、その「心の領域」も「意識の構成的な働き」により生じているのだから、それに還元する「超越論的還元」という段階がくる、ということになる。

しかし、超越論的な思考を理解すると、心理学的還元の段階というのは逆に理解しにくくなる(上記のように更に難解になる)可能性が高く、ここにはあまりこだわる必要はないと思われる。

(現象学的心理学についての考察を深める場合に、上記のことは重要となる)


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言葉のエポケー [現象学批判]

哲学は、言葉を使用し、言葉を前提せざるをえないのだから、「哲学の無前提」は矛盾である、という批判がある。

現象学は超越物をエポケーするが、言葉はエポケーしないのか、という疑問を見ることもある。

確かにこの問題は少しわかりにくい面がある。
答えるとすると、次のようになるだろうか?

現象学は、「言葉(記号)」を前提しているのではなく、「言葉(記号)」は「理」を指すため、「理」に至るための道具として使用されている。

例えば、「2×3=6」という演算式がある。これは「演算式の理」を名指すために、「記号(言葉)」が使用されている。この演算式において、「記号」はこの「理」の前提だろうか?

「記号」はあくまで伝達や理解の道具として使用されているのであり、「理」の正当性の条件として「記号」があるのではない。「記号」が現在このようであるのは偶然でしかないが、しかし演算の「理」は永遠である。

これと、言語のエポケーの問題は同様である。現象学の「理」は、言葉によって「理」が変わったりするものではなく、(だから「理」を同じものとして別の言語に翻訳できるのであり)「理」を指し、伝達する道具としてあくまで「言語」が使用されている、と、言えるはずである。

演算式の正当性の前提として「記号」がある訳ではないように、現象学の「内容の正当性」の前提として「言語」があるわけではない。

それでも、「言語」がなければ、理論も何もないではないか?言語があることにより、理論は可能になる、と批判する人がいるかも知れない。

しかし、この手の批判は、事の本質を見誤っている。この批判は、言語の使用を禁じているのであり、哲理の「無前提」ということとはかかわりはない。

それは、生活の中で哲学の論文を書くことにおいて、(生活が前提になっているので)生活を禁じるのと同様である。
数学の証明において、記号や図を使うのを禁じるのと同様である。
結論に至るための「手段」を禁じているだけである。

確かに、「充実した言語」や「前提となる理念」がないと「深い認識論」に至ることは難しい。デカルトやカントなど近代哲学の成果がないと、いきなり現象学を始めることはフッサールといえど困難である。しかし、充実の度に、再び元の認識論も批評、整備されていくのであり、それと「言語が前提になっているという批判」とは関係がない。つまり「理論」の整備を目的としているのであり、「言語」の整備を目的としているのではない。


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ブリタニカ草稿(最終稿)第8節 [読解シリーズ]

【超越論的循環の解決】

○現象学的還元により、意識の本質的な性質が露呈される

○それは、理性や世界の全ての形態を含む

○また、調和的な経験により「自体的に存在する」ように見える世界の形態も、理論的に規定される世界の形態も全て含む

○このことから、現象学的心理学は、存在と意識の相関性研究の場となる

○しかし心理学は、世界の中の心と心的共同体を探求する「実証的学問」である

○現象学的還元は、それが心理学的な還元にとどまるならば、実在としての心理的なものや世界の存在意味を手に入れるにすぎない

○心理学者は、たとえ現象学者だとしても、心を、世界の中に存在する人間や動物の心として取りあげる

心理学的還元は、現象学的還元(超越論的還元)の前段階と言われる。心理学的還元において、還元は「実在的な世界の中の、実在的な心」への還元にとどまるからであり、ここではまだ超越論的な構成の構造は見出されていない。

○しかし、超越論的な関心を原理とするなら、心理学は超越論哲学に対していかなる前提にもならない

○超越論的な問いにおいては、疑わしいものと疑いえないものの領域は区別しなければならない

○世界や世界のカテゴリー(事物や人間や動物)に対応して、意識というのは規制されている

○世界全体の存在意味が、一般的に、また個々のカテゴリー全てに関して、明らかにされるべきである

○超越論的な問いは、疑いえない存在の地盤を前提とするものであり、その地盤とは、意識の主観性である

○疑わしい領域とは、超越論的に素朴な領域であり、自然的態度での世界である

○従って全ての実証科学は、エポケーされないといけないのであり、実証科学の領域についても、心理的なもの全てについても、同様である

○それゆえ超越論的な問いに答えるのに心理学を支えにするのは超越論的循環になり、経験的な心理学を支えにしても、形相的-現象学的な心理学を支えにしても同じである

「超越論的な構造の問い」を「心理学(心理学的な心)」で基礎づけすると、その「心」も理論的な疑わしさをもつのであり、結局更に、(超越論的に)理論として問わなければならなくなり、循環する。心も含めて、実在的なものというのは超越論的に(本質論=理論として)問わねばならないのであり、超越論的なものを「心理学的な心」で問うてはならない。

つまり、実在的なものは全て(超越論的)本質論(=理論)として問わないと背理(循環)に陥るということである。一般に実在論は背理である。


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