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唯物論について [哲学問題]

今、唯物論を唱える人は少ないと思いますが、その背理性について少し書いてみたいと思います。

「一般的な意味での唯物論」ということで、辞書によると、

物質を根本的実在とし、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え。唯物論的思想は古代ギリシャ初期、中国・インドなどにも現れているが、近代以後では一八世紀フランスの機械的唯物論、一九世紀のマルクスの弁証法的唯物論などが代表的

ということです。

(1)唯物論は観念を根拠にしている

まず、「唯物論」は言語による理論です。理論は人間が観念的に意識、理解して初めて理論となります。従って、「唯物論は観念、意識を根拠にしている」ことになり、背理です。

理論は「書」として物質としてあるではないか?と言われるかも知れません。しかし、動物がその「書」を見ても何の意味もないように、その言語を人が観念的に理解して初めて意味を持ちます。

上記の説明でよいのですが、納得が得られない場合もあるかも知れないので、別の言い方をしてみます。

(2)唯物論は「超越視点」「神の視点」の措定である

眠っている時に、「物がある」ことはありえるでしょうか?
「眠っていても物があるのは、当たり前ではないか」と言う人は、起きている時点で、寝ている時を想像して言っているだけです。

つまり、私の意識が働かないと「物がある」ことなどないのであり、ということは「物がある」とは意識と相関的なものであり、「物自体」というのは、「超越視点」「神の視点」の措定である。

「物がある」というのは主観と分離できない。

(3)唯物論は「永遠の仮説」である

「認識」自体の説明はどこまで行っても物質ではなく、人の認識でしかありません。科学的にどれほど説明しようと、その科学の説明を人が認識しているだけです。(科学はあくまで人が認識できる「観点」による間接的な説明である)

従って、あらゆる認識自体の唯物的、客観主義的説明は無限遡行(無限にそれを認識する「主体のようなもの」を措定して行かなくてはならない)の背理に陥ります。つまり、誰か、何か、未来の科学が、その説明を可能にするなどと無限に措定せざるを得ません。当然その説明も永遠に仮説です。

これは実は神と同じです。神は無限に向かう人間の措定である(だから神は人によってその概念も異なる)ように、唯物論というのは神の視点の措定です。しかし神の視点も、人間が措定した「神の視点」に過ぎない。この両者を唯物論は混同しています。

つまり、「私の中の客観的な視点(=間主観性、経験性が加味された私の視点)」を「私の主観を離れた客観視点」と混同している。

「主観内で構成される客観性」と「主観と切り離された客観」を混同し、そして「間主観」と「(客観主義的)客観」を混同している。

そして、唯物論は、全てを「客観視点」で語りえるはずであると措定していく。どこまで物質で説明しようと、その説明(物質)は認識されて初めて何かである。


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Joker

>・・・混同している。

何故「混同」が起こるのかを、フッサールは説明していましたか?
『危機』でも『イデーン』でも、フッサールの言説は教条的(能書き)で閉口するところがあります。

数年前だったか、日本考古学方面を震撼させた事件で、「前日に埋めて置いたもの」を「翌日、発掘する」というのがありましたね。これは特殊な事件だったかというと、そうでもないです。「仮説を前日に埋めて置いて」「後日、その仮説を真理として発掘する」(カント『純粋理性批判』思考法の革命/コペルニクス的転回)。実証科学は、こういう仕方で自身の≪仮説≫を≪真理≫として手に入れます。

こうした手法を見ていくと、科学的思考が自身の客観性を「捏造」しているのか、「混同」しているのか、定かでない印象があります。この「置き入れられる客観性」が、実は「主観内で構成される客観性」に他ならないと指摘すべきではないでしょうか?/「混同」というのは、科学が「主観内で構成される客観性」という≪故郷の喪失≫のことではないでしょうか?
by Joker (2006-07-23 12:57) 

YagiYuki

>何故「混同」が起こるのかを、フッサールは説明していましたか?

ブリタニカ草稿でも「客観主義が・・・超越論的構成を理解しないために不当に貶めている客観性」という言い方はしていますが、「何故混同するか」という書き方は特にはしていなかった(?)ような気がします。

まあ、フッサールから見れば「超越論的構成を理解しないため」「物自体はエポケーしなさい」と言うことでしょうが・・・

>この「置き入れられる客観性」が、実は「主観内で構成される客観性」に他ならないと指摘すべきではないでしょうか?

そうですね。経験、時間、間主観性により「高められていく客観性」ということですね。

>「混同」というのは、科学が「主観内で構成される客観性」という≪故郷の喪失≫のことではないでしょうか?

そうですね。

科学は、何というか、主観を無視するか、主観をほとんど曖昧にしか扱わないので、「とりあえず、共通了解に達すればその辺のことはあまり気にしない、あまり気にしてはいけない」ということではないでしょうか。

この間「99・9%は仮説」という本を読みましたが、科学はほとんどはどこまでも仮説で、定説はいつでもひっくり返る、という内容でしたが、科学も哲学(現象学)の基礎づけを欲しているのではないでしょうか。(そんな科学者はいないと思いますが、学問的にはそういう方向だと思います)
by YagiYuki (2006-07-23 19:40) 

Joker

「クオリア」という概念に関して・・・新時代のデウス・エクス・マキナ?

例えば「コップ」が立ち現れるのは、「テーブルの上に」ですよね。つまり物は、「・・・の上に(下に)」とか「・・・の前に(陰に)」とか「・・・の傍らに(向うに)」とかを関連する≪背景もしくは風景≫として立ち現れます。で、ここから、テーブルの上に置かれた赤いリンゴを考えるとします。で、科学的思考は、≪赤のクオリア≫というように問題構成を展開してしまうようです。少なくとも、かつてあの時、「現象学は、このコップについて語れるんだよ」という友人の言葉にサルトルをして感動させたような問題構成とは月とスッポンかも。

ところで、ちょっと待てよと思うわけです。リンゴの≪赤≫は、一定普遍であるわけでもなく、その「瞬間」(キルケゴール)と「瞬間」が帰属する歴史的な時間において、普遍的な≪赤≫として自らを示すのかといえば、そうでもないですね。活き活きとした≪瞬間≫には「色鮮やかに見える赤」であり、憂鬱な≪瞬間≫には「ただの赤」であったりと。どちらの≪赤≫も普遍的な≪赤≫なのだ、差異はそのつどの主観の情状による≪赤≫の変容でしかないと敢えて弁明しようと思えば、そういうのも可ではあるでしょう。

しかし、≪赤というクオリア≫の出現は、コップやリンゴの出現と基本的に変らない。「コップのクオリア、リンゴのクオリア、赤のクオリア・・・」などと言っても、それは現象する事象の背後にもう一度≪物自体≫という概念を再帰させているに過ぎないという印象しか受けませんが、どう思いますか?

何故、クオリアなどという解決にもならない超越的解答を携えてクレーンで悲劇の舞台へ登場する阿呆な神(デウス・エクス・マキナ)がこの時代を訪れているのか?・・・彼らの言説が一様に描き出して見せてくれるのは、彼らは相変わらず対象(図)を思考しているのであり、それらが立ち現れる可能性の根拠をなす背景もしくは風景(地)を思考しようとしない姿ですね。つまりは、「地平」の忘却なのだろうと感じます。また、この「地平」の純粋な姿こそが「超越論的主観性の領野」なのだとということ、問い進められるべきはこの領野であって、クオリアなどという科学的概念ではないのだということを感じます。
by Joker (2006-07-25 02:19) 

YagiYuki

大体、そういうことだと思います。

人間の能力(超越論的主観性という意識能力)が、「コップの現れ」を可能にするのであって、科学的概念はその能力を「対象化」しようとします。

「意識の働き(ノエシス)」-「意識対象(ノエマ)」という構図があるとすると、どうしてもノエマの方にだけ目がいって、ノエシスを無視します。ノエシスもノエマ化(対象化)しようとするのですが、それが「全くの背理」であることに気付いてくれる人は稀です。

著名な人が、ときどき現象学に触れている場合も、批判の仕方が客観主義的前提で批判しています。実際にはカントを超えるのも難しいものです。
by YagiYuki (2006-07-25 07:05) 

Joker

実際のところ、ゲーデルの不完全性定理を携えて哲学の領域に越境して来て「無矛盾」と叫んで回る人がいます・・・ところが、カントの超越論的論理学以降、哲学の側では、「理性の限界」とこの限界を突破するときには「何とでも言えてしまう」という「独断のまどろみ」(カント)については、熟知していたのでした。「今さら、いったい何を大袈裟に言ってるんだろう」という感想が、率直なところですね。

>神の視点の二重性

人間理性の限界の外にあり、全てを見給う神の視点=超越的視点は、超越論的視点と微妙な距離にあるような気もします。ヘーゲルが≪論理学≫を定義して「自然と有限な精神の創造以前の永遠の本質の内にある神についての叙述」と述べていますが、ロジック→ロゴス(語り:理法)→ヘラクレイトス(初代流動の哲学者?/ちなみにドゥルーズなども「流動の哲学」と呼ばれたりします)と推論を遡らせると分からなくもない話です。

「それ」を「神」と呼ばずに「永遠の本質を記述する」ということであるなら、現象学をも含めて、超越論的哲学には、そういうところが確かにあるなーと。実証的な科学も哲学も、「永遠の本質としての神の声」を聞こうとするようには思えます。ただし、科学は、「対象(客観)に囚われた意識」であるので、どうしても「対象(客観)」の側からその「声」を聞こうとしてしまう。その「声」すら超越論的主観性において「構成された声(置き入れられた声)」であることを知っている超越論的哲学とではコペルニクス的に違って来ます。

科学は、「対象(客観)に囚われた意識」として、対象(客観)の側から「あの声」を聞こうとしてしまうので、「声」→「姿」→「物自体の真理」などというものを捏造し、知らないうちに超越的視点に立ってしまっているのでしょうね。人間理性の制限を飛び越え(あまり深くない小川を飛び超えて)、「神の座」を対象(客観)の背後に措定してしまう/かくして諸客観の広間に偶像的な「在りもしない神」が降臨してしまう・・・

超越論的哲学も「神の視点」を隠し持っているような気はします。ただし、「神の座」を主観性の側に置いているのだろうと思います。主観性の側にあるこの神は、通常客観とはならないものですから、「見ないもの」ですね。だから、この辺からカントの言っていた「見えざる教会」とか「目的の王国」とかの言葉も想定の範囲内となります。

同じ超越論的哲学のはずですが、フッサールと異なり、ヘーゲルでは、「神なる永遠」が歴史の中に自己を外化(疎外)しながら展開する様を弁証法をもって叙述し、こうした叙述としての「精神の現象学」全階梯によって「見えないもの」を記述しようとしました。例えば、「わたしが語るではない。わたしが語られるのだ」(『言葉と物』)とミシェル・フーコーが言うとき、「わたしが語る」という主観的・時間的行為とその行為を可能ならしめる超越論的主観性の水準(そこでは、わたしが語られることになります)を描き出すものですが、「主観的・時間的行為」の現れる地平としての≪歴史≫が、ここで、やはり超越論的主観性の水準としてその姿を示します。ヘーゲルが≪歴史≫に拘泥したのを考えながら、「ああ、≪歴史≫そのものが超越論的主観性のことなんだ。なら、そういう現象学もありかも」と愕然としたことがありました。もっとも、ヘーゲルの語る≪歴史≫は既に「オカシイ」わけで、そのガラクタの中から「精神の現象学」という理念をいかに汲み取るかが課題となるのでしょう。

で、始めの話題に戻ると、「神の視点」・・・「物自体の真理」であるような神は消えてしまうわけですが・・・は、超越論的主観性の側に、反対に残ります。鏡が割れて像が消えても、その鏡面に映っていた本体が消えるわけではありませんから。かくして、このような神=精神がしだいに高められて行く意識の運動として記述され、この精神の「現象学」となると思います。このとき、現象学は、「基礎付ける者」という姿から「導く者」という真正の姿へと還帰を果たします。
by Joker (2006-07-26 01:50) 

YagiYuki

多分、フッサールを読んでいくと「客観的な理念・本質」というのは一体どこにあるのだろう、という疑問がわくと思います。

実際には、「幾何学的な理念」「事実的な世界、経験的な世界を抽象化したもの(本質)」「事実世界的な偶然のもの」、これらの概念が「様々な哲学」でごちゃごちゃとなっています。

カントは(三批判を読んでいる途中ですが)、限界はありますが少なくとも整理され見えています。私の知る限り、これらが整理されて見えているのはフッサールの次にはカントくらいです。

で、「理念・本質」は客観性があるのですが、「何故客観性があるのか」「一体それはどこにあるのか」という疑問がわくはずです。

数学的な「1+2=3」では、書き方は偶然ですが、この数式の指す理念は永遠で「客観性」があります。

例えば、「花」というのも「事実的な世界の事物を抽象化したもの」ですが、この本質も客観性があります。

当然、その「理念・本質」は、世界(客観)の側にはなく、主観の側にあるのですが、それは「心理的に生み出されるもの」ではありません。「心理的なもの」なら永遠でも客観性もないはずです。

結局「イデア的な理念、意味」として心的構造を貫いているものとして、誰にでもあるということになってしまいます。

では、「どこにあるのか」というと「どこにあるとかそういうものではなく」「イデア的なもの」でしかない。「どこにある」と言いにくいと、「神」とか言い始めるのかも知れません。

「何故客観性があるのか」というと、「花」とかは、「意識~身体」の共通性に関係がありそうです。生まれつき盲目で寝たきりだと「花」の概念は共通性が得られないでしょう。「視覚的な意識構造」に共通性があれば「客観性」をもつ、ということでしょうか。(では触覚との絡みは?)

「数学的な理念」は「論理的思考力」に関係しそうです。宇宙人でも、「論理的思考力」があれば、「数学的な真」は人間と同じでしょう。

これらはフッサールがある程度展開しているかも知れませんが(ちょっと覚えていませんが)、もう少しつっこんで、考えてもいいかも知れません。
by YagiYuki (2006-07-26 08:05) 

Joker

>当然、その「理念・本質」は、世界(客観)の側にはなく、主観の側にあるのですが、それは「心理的に生み出されるもの」ではありません。「心理的なもの」なら永遠でも客観性もないはずです。

そうですね、これは、全くその通りです。
ソシュール言語学との絡みで、パロール(話される言葉)という言語活動の意識的水準に対して、ラング(母語)という前意識的水準が浮上したのは、どうもその辺にも理由があったかなという印象です。「パロールに対するラングの優位」(ジャック・ラカン)みたいな感じです。ラングという前意識的水準は、「わたし」という諸体験の個人的水準じゃなくて、「そこ」に既に「わたし」が帰属してしまっている社会的水準――生活されている世界という――ですね。ということは、フッサールには、事情が呑み込めていたに違いありません。

ラング(母語)の水準は、「わたし」という主観が生活する心理的「大地」のようなものかなと思います。そして、その心理的「大地」というのは、たぶんメルロー=ポンティなどが指摘していたように、前主観的・前客観的な不分明の「前述語的」平面ですよね(尚、「平面」と呼んだのは、ラングが諸観念の「体系」だからです)。

「どこにあるのか?」という設問には、或る程度、答えられるとは思っています。ここから、現代哲学において、どういう経緯で言葉・言語がキーワードとなったかも頷けます。

言語は、パロールとして「わたし」という諸体験の主観の側に位置すると共に、ラングとして間主観的な共通の台座ですね。「手術台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」(ロートレアモン)。で、ラングとしての言語は、言語活動としてのパロールがそれに基づいて種々の出会いを果たす地平なのですが、≪それは「心理的に生み出されるもの」ではありません≫という通りです。

言語(ラング)の「体系」は、アプリオリなものですが、不変ではなくて、変形生成するアプリオリだと思います。当然のことですが、イデアの体系であるはずのラングなのに、パロールという経験的な言語活動の経過の中で変形され、そのつど生成しています。ところが、パロールというものは、ラングという規則の体系に基づく個人的かつ社会的行為であるはずなのに、どうしてアプリオリな規則と意味との体系であるところのラングを変形させてしまうことができるのか?

ここから、パロールという意識的活動の「前意識」であるラングに対して、もう一つの項が想定されて来ました。これがフロイトの発見した≪無意識≫と呼ばれるものとして、パロールの「脇に外れ、傍らに生産される」(ドゥルーズ+ガタリ:『アンチ・オイディプス』)ものだとされています。それはまた、パロールを伴う意識が諸知覚を綜合統一して一つの経験へと織り成し、この経験に形態と意味とを与える時間的活動であるのに対して、≪無意識≫の方は、「諸部分を統一もしなければ全体化もしない全体」(ドゥルーズ+ガタリ)と目され――というのは、「何か」に向けて意味や判断が形成されるときには、捨象されるもの、そうでなかった事柄の全体もまたあるからです/例えば、「ここに居るわたし」は、「ここに居ないこともあり得たであろうわたし」でしょうから――、これは≪無・意識≫として意識の有意味的(身体的には有機的)統一をもたない総体の領野です。「器官なき身体」(ドゥルーズ+ガタリ)と呼ばれたりもします。

統一を構成する「同一性」の時間的地平に対して、この否定性(?)としての「差異(差延)」という地平が、現代哲学において、開かれたわけでした。だいたいこうした経緯・脈絡が、現象学(超越論的哲学)を取り巻く状況のように感じます。かなり多彩な発見、ポスト・モダーンなどに見られた過激・晦渋な言説や言ってることなど実はたいしたこともないウィトゲンシュタイン(日本では持ち上げられているものの、実際のドイツ・フランスの哲学の方面ではろくに言及されてもいませんから、恐らく相手にされていないわけでしょう)らの言説に隠されてしまい、超越論的哲学が本来の影響力を発揮できない事情もある感じです。

大きな問題は、諸観念のタブロー(台座:表)であるところのラングがそのアプリオリを変形生成するにせよ、どこからやって来たものなのか?・・・でしょうか。この問いへの回答をハイデガーのように「大文字のザイン」からの贈与として捉え返すと、確かに≪存在の光(明るみ)の形而上学≫となります。
by Joker (2006-07-26 14:15) 

YagiYuki

哲学は「理論」であり、必然的に「本質論」です。
(「本質論」を否定する場合でも、それが「本質論」となって自己矛盾です)

従って、現象学は「本質」へ向けた記述となるのですが、このことが見過ごされがちです。

言語意味も「一般的意味(意味的本質)」と「事実的、実存的意味」と両方あるのですが、私が知っている範囲では、フッサールが「論理学研究」で展開してる言語論が一番深い所に行っているように思います。(これは哲学史上最大の難物ですが)

フッサール以降~現代哲学なども、(あまり詳しくないのですが)ちらちら見る限りかなり誤解があるように見えます。

>パロールというものは、ラングという規則の体系に基づく個人的かつ社会的行為であるはずなのに、どうしてアプリオリな規則と意味との体系であるところのラングを変形させてしまうことができるのか?

パロールによりラングも(やや)変形しますが、フッサールから見ると「本質」が変化しないように哲学上の言葉を使えばそれで問題なし、ということでしょうか。

彼から見れば、ラングもパロールも事実的偶然的側面に焦点を当て過ぎているので、もっと変化しない本質的側面から中心に見ていかないと哲学は「経験主義、相対主義」に陥りやすいよ、ということでしょう。

言語論は「論理学研究」からもう一度整理し直すと「見通しがよくなる」はずなのですが、どうでしょう・・・

「理念、意味はどこからきたのか」

例えば、初めて「ブログ」という言葉を聞いたとします。先に言葉を聞き、それから「ブログの意味」、「ブログの実際の内容」などを反復する中で、「ブログ」の一般意味が自分の中で反復、記憶されていきます。「反復により変化しない」というのが意味形成には必要です。変化してもいいのですが、変化したものが今度反復されます。そして、その言葉の一般意味は誰でも共通に持てるようになっています。

しかし、数学、論理学の真理というのはこういうものではありません。その論理的真理性はどこからきたのか?とは言えないようなものです。いつどこで誰が初めてもそうなるよう用意されていたものです。

その他、様々に分類できると思うのですが、こういうのはあまり人は興味ないかも知れません。
by YagiYuki (2006-07-26 23:10) 

Joker

数学、論理学の真理・・・

「1+2=3」は、数学的ないし論理的「真」である前に、直観された「真」だったのではありませんか?/「いつどこで誰が初めてもそうなるよう用意されていたもの」であるとしても、です。としたら・・・「1+2=3」は、記号的言語である前に、一般言語であったのではありませんか?/こうした直観への還帰こそ、現象学だと思います。

そして、「1+2=3」という真理体験を、それぞれの人間は、各人の「母語」において了解していたのではありませんか?/「イチ タス ニ ハ サン」なのではありませんか?・・・ということは、答えも「そこ」にあるのではないでしょうか?/「そこ」を飛び越えてしまうから、解答不能に陥るのだと思います・・・「という指摘こそが現象学であったのだ」と認識していますが、どこかオカシイ?

テーブルの上の「このコップ」について語れる(サルトル)、空から降って来て受け止めた掌の上で溶けた「このあられ」について語れる(メルロー=ポンティ)現象学は、意識の直観的所与への還帰において、数学、論理学の「真理」の源泉へと遡り、この「真理」の≪本質≫について記述するものです。

哲学は、理論的言説として特化される以前に、その言説の源泉を一般言語の「生活」の中に持つものです。「1+2=3」が、「イチ タス ニ ハ サン」として体験され、その「真」が生活された世界の中で保たれる「信」であるのと同じだと思います。

特化された理論的言説の言語が「一般言語」からの派生であるのは、時間性がそこから時計時間が派生するところの可能性の根源であるのと同じことだと思います。したがって、現象学は、「一般言語への還帰」でもあるのでなければなりません。

単純に言うと・・・「1+2=3」は、「イチ タス ニ ハ サン」として、「プログ」に項のところに代入可能なのではありませんか?・・・ということです。「いつどこで誰が初めてもそうなるよう用意されていたもの」としての「真」は、≪種々の母語の間に張り渡された横断的な(翻訳可能な)「信」≫でしかないと思えますが、どうなのでしょう?

>フッサールが「論理学研究」で展開してる言語論が一番深い所に行っているように思います。(これは哲学史上最大の難物ですが)

これは、事実、高く評価されています。「鏡像段階」の理論の提唱で知られるフランスの碩学ラカンなど、著名なところは「論理学研究」の方を評価する傾向があります。ま、理由はお察しの通りです。
by Joker (2006-07-27 01:46) 

YagiYuki

>「1+2=3」は、記号的言語である前に、一般言語であったのではありませんか?
>そして、「1+2=3」という真理体験を、それぞれの人間は、各人の「母語」において了解していたのではありませんか?

誤解があると思うのですが、「1+2=」ときたときに「4」でも「10」でもなく「3」とするのを我々は「理」として直観します。記号を見ても言語を見ても、そこからはその「真」を判定できません。つまり「論理」があり、それに対応するものとして「言語」「記号」があります。

それはもう少し、複雑な数字で計算すればわかる思います。「578+895=」これは記号から結果を類推、暗記しているのではなく、「論理計算という理性」を働かせています。そうでないと、全ての計算結果を覚えてないといけません。

そうでなければ、各言語で「言語」「記号」「発音」が異なり、それは偶然なのに「計算結果」が一致することは不思議になります。

現象学は「理」が中心にあり、「理」を意味する道具的なものとして「言語」が活用されています。どの言語でも、翻訳でき「理」が同じものとして扱えるのはそのおかげです。

従って、「本質論」が中心となり、何故「イデーンⅠ」以降であまりフッサールが言語論を展開しなかったかというと、言語論は、「本質論」が先に展開され、その後でくる他の分野と並ぶ一つである、という認識をフッサールがしていたからではないか、と私は推測しています。
by YagiYuki (2006-07-27 22:39) 

Joker

「578+895=1473」を説明する原理に「1+2=3」を持って来るのなら分かります。反対に「1+2=3」を説明するのに「578+895=1473」を持ち出すというのなら、それは違うように思います。通常、「1+2=3」という単純な算数の規則の学習の後から「578+895=1473」となる学習に移ります。逆ではありません。「1+2=3」という約束事の「真」は、だから、「1人の児童+2人の児童=3人の児童」といった生活された世界体験の中で確証され、汲取られたものでしょう?/どちらもその「真」が「理」から汲取られるのだとしたら、「578人の児童+895人の児童=1473の児童」から始めても同じことになるはずですが、どこの社会でも、そういう学習のさせ方はしません。事実に違反しています。

事実違反を引き起こしてしまうのは、「1+2=3」という下位のゲシュタルトと「578+895=1473」というその上位のゲシュタルトとの階層的差異を「論理」で括ってしまうからではないですか?

算数の初歩計算の「真」の領域が、その上の高次元な演算の「真」を保証するのであって、その逆ではないと思います。もしそうなら、「基礎付け」なんて必要もないはずでしょう。

「1+2=3」がその「真」を汲取る生活された世界にも、具体的な「論理」が機能していると思います。例えば経済的交換の「論理」です。貨幣価値を共通基盤に置いて、そう上を物品が流通していたりです。で、これらの価値が基づく原理はといえば、「1=1」すなわち交換の大前提である≪互酬原理≫だということになるでしょうか。ちなみに、ソシュールは、経済学的交換のモデルを言語学に導入し、業績を上げた人ですが、おなじみの「シニフィアン」「シニフィエ」は、もとは経済学の概念です。

*:≪互酬原理≫は、また他方では、「近親婚のタブーは、あらゆる社会体において普遍的に存在する規則である・・・」として始まる『親族の基本構造』(レヴィ=ストロース)において、インセスト・タブーの社会的起源の謎を明快に解き明かす原理でもありました。

生活を支える交換活動の領域(経済的行為もその中に含まれます)、そこは、ランガージュ(言語活動)の領域ですね。市場のランガージュ/コミュニケーション。そして、「ランガージュは、ラングとパロールによって成立する」わけです。したがって、下位にある「論理」というのは、「ラングの秩序」だということも判明して来ます。

≪互酬原理≫は、神話論理・民俗学的風習として生活され体験される世界の根底に眠る見えざる原理でもありますが、広く交換一般の原理として、レーベンスベルトを貫いて流れている志向的な流れの「論理的所産」だろうと推測されます。現象学が目覚めさせるべきなのは、この「見えざる流れ」=超越論的主観性への認識と理解でしょう?

>「真」の判定・・・論理

その論理の「理性の場所」が、ラングの水準であると指摘することに問題ないと思います。市場のイドラか洞窟のイドラかみたいな話じゃないわけですから。

>各言語で「言語」「記号」「発音」が異なり、それは偶然なのに「計算結果」が一致することは不思議になります。

この不思議に回答するのに、「論理計算という理性」を持ち出してしまうなら、古えのバベルの塔以前の統一言語の普遍性において、翻訳可能性を言ってしまうことになりませんか?/そんなものが在ったわけでもないし、在るわけでもない。「伝説を創ることでその失われた先史を蔽い隠したように」(フロイト)。それでは、「真」が想定されたもの(仮象)から汲取られ、引き出されることにもなりかねないと感じます。何か、あべこべの理屈のように思えます。
by Joker (2006-07-28 13:03) 

YagiYuki

ちょっと私の意図を誤解しています。

「578+895=1473」でも「1+2=3」でも、同じ「加算の原理」です。

コンピュータに「加算原理」があるとすると、初歩計算でも複雑な計算でも、「その原理」つまり「理」が先行するのであって、「記号」が先行するのではないということです。
by YagiYuki (2006-07-28 21:18) 

Joker

「論理(法)」が、例えば「1+2=3」という算数式の全体を「真」として可能ならしめる。そして、そのことは、「578+895=1473」であろうとその他であろうと基本的に同じことである・・・という主張ですよね。

で、その結果、「理」というのは「法則・規則」のことになってしまいます。

ところが・・・「法」=「約束事の体系」=「構成された理性」です。
それらは、超越論的主観性の領野で「構成されたもの」ですよね。OK?
分かりやすく、「構成されたもの」=「超越論的主観性という話者によって物語られたもの」とでも置き換えましょうか。それが、書記されて「書物」となって読まれている・・・このときの「オリジナルの書物」が規範・法として存立します。ベーゼンというのが、この「オリジナルの書物」の意味になってしまっている。

これに対して、超越論的主観性というのは、常に「構成する理性」です。これは、時間性において、「到来」の契機が優位に置かれるのに対応しています。

時間性での「到来」「既在」「現在(現世化)」・・・は、志向性・「ノエシス-ノエマ」相関の構造契機のことでもありますよね。こういうのは、「シニフィアン-シニフィエ」相関で置き換えても同じことか。

で、この場合の「構成する理性」の方は?
そこが問題にすらなっていない・・・
超越論的主観性の能作が、いかにして例えば「加算原理」という「理・法」を構成するに至るのか(それは同じく「真」を得させ、保証するのでもなければなりません)?・・・というツッコミなのですが。

生成の前にもう「論理・法」が在ってしまうのが「オカシイ」のは、それが「循環論証」の堂々巡りになってしまうからです。出口なしです。「EXIT」フッサールの有能な弟子たちが皆立ち去って行ったのは、それぞれが、この出口を見出したからでしょうね。
by Joker (2006-07-28 23:56) 

YagiYuki

どうも話が平行線を辿っているようです。

話はシンプルです。

例えば、言語もない「原始人」(あるいはチンパンジー)が、目の前で石ころを集めているとします。

「三個」と「五個」を集めて「八個」。

この結果の「真」は、「言語」「記号」に先行してある。

数学のように演繹されるものは、結果は元々決まっているのであり、その「理」は「記号」「言語」などのような事実的道具に先行する。

だから「演繹」されるものは、結果が決まっているので、チンパンジーが理性がなくても結果を出せる。私が「論理」を使って結果を出さなくても、別の人が結果を出せる。

数学的「演繹」ということです。

そうしないと、「結果は決まっていない」、バラバラの答えもある、となる。
by YagiYuki (2006-07-29 21:54) 

ある唯物論者(異邦人)

>「認識」自体の説明はどこまで行っても物質ではなく、人の認識でしかありません。

認識対象が客観的対象として存在しているのか否か、が問題です。
実在論では認識対象が客観的対象として存在しているものと考えます。
客観的対象としての存在を実在と呼びます。
実在とは、対象が自分とは独立してこの世界に存在している、ということを意味します。
例えば、私は「リンゴ」が目の前にあればそのリンゴを実在であると考えます。
他の人もそのリンゴを見ればそこにリンゴがあること、それがリンゴであることに同意するはずです。
こうした共通了解が成立することからその対象が実在(客観的存在)であると判断できます。
リンゴに対する認識を「人の認識でしかありません。」と述べるのは無意味な言明です。
ですので冒頭で引用した言明も無意味な言明です。
リンゴの認識に対して、それが客観的に存在していると考えていいのかどうか、という問いに先ず答えるのが必要です。
この問いに対して、もし客観的存在を否定するのであれば、我々の認識において何故共通了解が成立しえるのかを説明する必要があります。
ここで「我々」という表現を用いましたがお互いが独立した存在である(客観的存在=実在)であることを前提とした表現です。
もし客観的存在を否定するのであれば「我々」という表現は使用できないはずです。(そうではありませんか?)
私は実在論者であり唯物論者ですので当然「我々」という表現に何の違和感もありません。
私はこの世界、および、この世界の全ての人々や事物を実在(客観的存在)であると考えます。

by ある唯物論者(異邦人) (2013-09-12 23:14) 

ある唯物論者(異邦人)

私は実在論者であり唯物論者です。
ですので、私は私の文書の読者を私とは独立した存在であると考えます。
私の文書の読者はこの世界に私とは独立して存在しているものと考えます。
このことについて、現象学論者はどのように考えているのでしょうか?
もし、客観的存在(私とは独立した存在)を否定するとしたら貴方の文書の読者は(私を含めて)どのような存在身分になるのでしょうか?
(実在論者の私としては)不思議でなりません。
客観的存在(自分とは独立した存在(他者)=実在)を否定してどうして議論が可能であるのか不思議でなりません。
議論では自分とは独立した存在としての他者を必要とします。
現象学論者が何を相手に現象学を主張しているのか、不思議でなりません。

(話は変わります。唯物論の結論のひとつを示します。)
認識も現象も物質(脳の純機械的仕組み)から生まれます。
物質は全ての母です。心、精神、認識、現象の生みの親です。
物質から出発しない限りこの世界の全てを記述することはできません。
物質から出発すればこの世界の全てを記述することができます。
物質から出発すれば自然世界の全てと精神世界の全てを記述することができます。
物質から出発すれば「クオリア」や「現象的意識」の意味も真に解明できます。
物質から出発しない限り「クオリア」や「現象的意識」の意味は解明できません。
観念論/現象学では認識や現象がどこから来ているのか理解できません。
最初に認識ありき、最初に現象ありき、では決して真実に接近できません。
観念論/現象学で何らかの真実が解明されることは決して無いと断定できます。

by ある唯物論者(異邦人) (2013-09-13 00:27) 

ある唯物論者(異邦人)

>つまり、私の意識が働かないと「物がある」ことなどないのであり、

私が意識しているか否か、ということと、(意識対象の)物があるか否か、ということは別の問題です。
私は、意識しているか否かに拘わらず物は存在する、と考えています。
そもそも、「心、意識、認識、観念、現象」といったものは物質(脳の純機械的仕組み)から生まれます。
(客観である)物質の存在なしに「心、意識、認識、観念、現象」が生まれることはあり得ません。
「意識があってはじめて物がある」と考えるのは本末転倒です。
客観(である物質)が先であり主観(である意識)は後です。

>(3)唯物論は「永遠の仮説」である

あらゆる論は仮説です。唯物論のみが仮説なのではありません。
ある仮説がこの世界を、この世界の全ての現象を整合的に過不足なく説明可能である場合、私はその仮説を真実として受け入れます。
唯物論はこの世界を、この世界の全ての現象を過不足なく説明可能な仮説です。ですので、私は唯物論を真実として受け入れています。
唯物論は自然世界の全てと精神世界の全てを整合的に過不足なく説明可能です。
それに対し、観念論/現象学では「(認識主体としての)私」を捉えることができません。
観念論/現象学では「(認識主体としての)私」を「不可知な何か」「語り得ぬもの」として放り捨てています。
「(認識主体としての)私」はこの世界を構成する最も重要な部分です。
しかし観念論/現象学で認識できるのは「(認識対象としての)私」のみです。
「(認識主体としての)私」と「(認識対象としての)私」の間には決して超えることのできない大きな隔たりがあります。
「(認識主体としての)私」は広大な広がりを持つ世界です。
「(認識対象としての)私」は「(認識主体としての)私」の部分的な影に過ぎません。
観念論/現象学の研究対象は現象世界、観念世界でしょうが、その現象世界、観念世界を生み出し構成しているのは「(認識主体としての)私」です。
この「(認識主体としての)私」を捉えることなしに世界を明らかにすることはできません。
ですので観念論/現象学で世界を解明することはまったく不可能です。
唯物論では「(認識主体としての)私」の姿を捉えることができます。
唯物論の真の意味を知ればこの世界の全ての意味を捉えることができます。

by ある唯物論者(異邦人) (2013-09-14 21:42) 

ある唯物論者(異邦人)

>(1)唯物論は観念を根拠にしている
唯物論では、物質から心、精神、観念が生まれるものと考えます。
仮に唯物論が観念を根拠にしていることを認めたとしても、その観念自身は物質を根拠としているのであり、如何なる背理も生じません。

by ある唯物論者(異邦人) (2013-09-19 20:07) 

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