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間主観について(現象学の基本理念1) [フッサール現象学]

現象学の「間主観」「相互主観」とは何か?

その前に、一般的な意味での相対主義について。
(内容的には、懐疑主義、ニヒリズムも同じ構図である)

相対主義は、人の「絶対的」「普遍真理的」「説教的」な物言いの怪しさ、押しつけがましさから、人にはいろいろな考えがあり、文化も環境も異なるのだから「様々な見方」を許容しようという発想が一つにあると思われる。これは「ごく自然な考え」である。

ただ、一般に相対主義は、あまり詰められたものでないがゆえに、「本来の意図」とは逆の思想になりがちである。

相対主義は、一方で、自説は「正当」と述べているが、他方で、他者の説は「相対的であり正しいとはいえない」(ここで自説が「正しいとはいえない」ことは問わない)というダブルスタンダードな状況にある。

つまり、自説は「正当」、自説の「相対化は問わなく」、他説だけ「相対化する」。

そうすると「相対主義は絶対である」となる。

「相対主義は相対的である」なら、説として成り立たない。そうすると、自分の許可する説だけ「相対的な説」として認め、許可しない説は認めない(その判断の根拠は自分にある)ということになりやすい。

「相対主義」と「絶対主義」が頭の中にあるとすると、「様々な見方を認める」なら、「絶対主義」を認めることになる一方、他方で「相対主義」が「絶対主義」を認めるのはおかしい。

「相対主義」は、「絶対主義」的な考えと同様に、自己視点のみが「超越(客観)視点化」「絶対領域化」しやすく、「同じ根」をもつものである。従って、(「超越視点」どうしがぶつかり)「相対」として成立しないことになる。

従って、相対主義もそれを克服するために複雑化していくこともあるが、基本構図が同じであれば、複雑になっても見かけ上しか変わらないことになる。

日常で「絶対観」「正誤」を突きつめるのは困ることも多く、生活での人生観の相対性、曖昧さは自然なことである。

ただ、そうした日常の「絶対観」「相対観」と、現象学の原理的な構造の問題とは「別のこと」である。アプリオリな本質論は、個人的な趣味嗜好、生活感、心身、社会経済的状態には依存せず、その理解がないと(イデーン「あとがき」にもあるように)現象学は許容されない。自然にそこにあるのではなく、理念的なものなので、「理解が限界」となる。

アプリオリな本質論は、事実(現実)的価値論とは異なる位置にある。価値創造せず、価値構造を見るだけである。ある種の「誤解」は避けがたく、近く見える哲学とも異なることも多く、理解がかなり進まないとその(考え抜かれた)意味が見えてこないのが、「何とも言えない」ところである。

「相対主義」の問題を克服したのが、「間主観」「相互主観」であり、それは無理のない意味での「(超越論的な)相対主義」である。

現象学では、超越視点(客観視点)をもたない。私の視点が全てであり、全ては主観内で閉じ、その外部に出ることは背理である。

(簡単に言えば)外部をエポケー(保留)した主観を、「超越論的主観」という。

超越論的主観の中では、他者も「構成されて」あり、他者も私と同じように「主観」をもつ他者である。

そして、「私」も「他者」と同様にその中で「構成されて」ある。

これを図示すると、次のようになる。

【同一生活世界の経験と認識対象の客観性】

事物や認識対象は、ほとんど自分の生み出したものでもなく、様々な人の中で「作られ」「修正され」「手を加えられ」た客観(相対)的な対象である。対象に対する認識は、他者の経由で客観性が増す。

ある事物(や空間)があるとすると、他者も私も同じ事物(や空間)を経験しているのであり、同一生活世界の中で他者経験を私も経験している。

あらゆる書物にしても、製品、建物、店舗、公共物にしろ、この構図はアプリオリである。

【自己客観化】

「自己主観」も同一生活世界の中で「他者」と同様に「1個の主観」であり、対象化、相対化された主観である。間主観は、そういうことを理解している主観である。

【自我と他我の形相的還元(本質構造の洞察)】

どの主観にも共通構造部分はあり、超越論的構造は誰にとっても普遍的に成り立つ。

能力差、所得格差、社会的格差、性差、身体差、趣味嗜好など、様々な差が人にはあるが、事実的な所有ではなく、自我の本質構造をもつことにおいて平等である。

【理性的な認識】

自己(経験)と他者(経験)は同列にはならない。他者の心理や知覚は自分には経験できず、外面的なものしか与えられない。しかし、他者が、自分と同じような自我の構造をもつと理解するのは難しい話でもない。その意味で、間主観的認識は理性認識であり、その可能性である。

間主観は、自己の頭の中に「共同関係世界」をもつ主観である。自己の「超越化」は間主観性において元々無理がある。

当然、その構造を認識したからうまくいくというのでも、現実がどうにかなるわけでもなく、もしくは、一般社会ではそれはほとんど当たり前のことかもしれない。あくまで原理的なものであり、原理的な部分で混乱、矛盾があればそれが解かれるということでしかない。個々の事実生からは(普遍論なので)影響は受けず、生・生活が破綻していてもそれは関係しない。




フッサールの間主観性の記述は、「他我論」との絡みを含めやや「微妙で難解な」感じになりがちであるが、基本的な発想はこのようなものである(と思われる)。

「超越視点を排した」超越論的な形態において、この「間主観(超越論的相互主観)」が本来の意味での「客観主義」となり、矛盾を克服した意味での「相対主義」となる。(ということが、「ブリタニカ草稿(最終稿)第16節」で簡単に述べられている)

「客観」「客観性」というのは、経験的なものの間主観性と、概念・理念・自我構造の共通性によって支えられている。


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フッサールの「真理」について [フッサール現象学]

フッサールは「真理」という言葉を好み、よく使用しています。しかし、この言葉がどうも「現象学」理解に混乱を与えていると思えることも多々あります。

現象学を語る際に「真理」という言葉を「定義なし」でそのまま使用することも、それに輪をかけているような気もします。

勿論、フッサールは客観主義的な意味で「真理」と言っているわけではありません。

「純粋現象学は、物理的ならびに心的な自然的現実についての真理(すなわち歴史的な意味での心理学的真理)は一切論定せず、またそのような真理を前提や補助定理として用いることもしない」(論理学研究4 補遺(5))

「私が超越論的ないし純粋な現象学者である時間には、私はひたすら超越論的自己意識のうちにあり、…。ここには客観性をもつものはないし、ここに客観性、世界、世界学といったものがあるとしても、それは超越論的われとしての私の現象でしかない」(危機 第72節)

というように、主観を超えた、主観と分離された「客観」「真理」というものは現象学では背理です。「主観-客観」図式で言われる「客観自体」「主客の一致」という概念は背理です。これは現象学の前提なのですが、これを誤解、あるいは誤解を与えかねない表現もよくあります。(超越論的)現象学では一切は「主観内の現象」でしかありません。

【明証】

「明証とは実際に直観し、直接かつ十全的に自己を把捉する意識のことであり、このような意識はまさに十全的な自己所与性に他ならない」(現象学の理念 講義四)

「明証とは全て、存在するものを、「それ自身」という様相において、どのような疑いも排除するような完全な確実性において、そのもの自身を捉えることである」

「だからと言って、明証的なものが後になって疑わしいものとなる、あるいは、存在すると思われていたものが仮象と判明することになる、といった可能性を排除するものではない」

「明証をもっていたにもかかわらず、疑わしいものになるとか存在しないかも知れないとか、そうした事態になる可能性が開かれていることは、明証の働きへの批判的な反省によって、いつでもあらかじめ認識することができる」
(以上、デカルト的省察 第6節)

「明証」とは、あくまで意識の中で「直接」「十全的」に「そのものを捉える」ということであり、「外的存在」の絶対性を与えるものではない。

「ある表象が我々にとって明証的になるとは、その表象を根源的に充実する確信にもたらすことなのである」(受動的総合の分析 第16節)

「全ての意識作用には、確信の様相が属している」(危機 第20節)

当然、「意識の中」で「明証」であっても、「外的存在」は超越としての「確信」でしかない。「確かめたら違っていた」ということはよくあり、それでないと「マジック」は成立しない。

【真に存在する】

「真に存在する、現実に存在する」とは何か?

「明証的に同じものとして捉える綜合の歩みが明証的に与えられたものと対立することになれば、今通用しているものを直ちに放棄しなければならず、現実の存在について確信をもつことができるのは、正しいまたは真の現実そのものを与えてくれる、明証的な確認という綜合によってのみである」

「対象についての真理つまり真の現実は、明証からのみ汲み取ることができる」

「明証は全て、私にとってある持続的な所有を創設する」

「そのものが見てとられた現実であれば、私は「繰り返し」、新しい明証の連鎖のなかで最初の明証の再生として、そこに立ち帰ることができる」

「こうした可能性なしには、…どのような存立し持続する存在もなければ、いかなる実在的な世界も理念的な世界もない」
(以上、デカルト的省察 第26-27節)

つまり、「真に存在する、現実に存在する」とは、いくら繰り返しても「同じ存在」ということである。持続する明証がなければ、「存続する存在」も「実在的な世界」も「理念」もない。

「パソコンが真に存在する」とは、「何度どのように確かめても、同じパソコンが存在する」ということであり、「理念の同一性、普遍性」は「何度確かめても、同一の理念であり、誰が確かめても、同一の理念である」ということである。

【真理】

フッサールは「真理」という言葉を「論理学研究4」(6-1-5-39節 明証と真理)で難解なややこしい言葉で定義しています。

4つの定義があり、それは次のようなものです。

(1)真理は「事態であり、同一性」である。思念されているものと与えられているものとの完全な一致である。この一致は十全的で顕在的である限り、明証の中で体験される。一致を十全的な知覚によって意識する可能性がある。

(2)絶対的一致という理念

(3)対象が、本質のイデア的充実として体験される

(4)志向と対象との一致。論理的な命題の判断の正当性

簡略化しても、わかりにくいのですが、「(2)と(4)の意味での真理が一致の理念である、ないしは客観化的措定と意味の正当性である」(同節)というように、(2)と(4)は「理念、意味、論理としての一致、つまり真」ということです。

「真理という意味での存在については、(1)と(3)に基づいて、「一致の中で思念されると同時に与えられてもいる対象」の同一性のことである、もしくは十全的に知覚されうるもの一般、しかも知覚されうるものによって立証されるべき(十全的に充実されるべき)何らかの志向への不特定な関係の中で十全的に知覚されうるもの一般のことである」(同節)というように、(1)と(3)は「対象の十全的な知覚、本質直観」と言える。「真に存在する」という意味での「真理」は(1)と(3)になります。

平たく言えば、「真理」とは、「何度確かめても真である理念や存在」のことに過ぎず、それは「意識によって得られるもの」である。

だから、意識を超えた「真理」や「絶対性」のことは何も述べられてはいない。

「世界の存在がこのようにして、たとえそれ自身を与える明証においてですら、意識に対しては超越的であり、また超越的にとどまる」

「どのような客観的に実在する対象についても、絶対的な明証というのは一つの理念、無意味な目標であろう」(以上、デカルト的省察 第28節)

「超越的な実在者に関係する真の事柄が「十全に」与えられることはない」(経験と判断 第70節)

「ところが、ギリシアに生まれた新しい人類は、自分が、自然的生活の「認識」「真理」という目的理念を改造し、「客観的真理」という作り出された理念に、あらゆる認識の規範という高い尊厳を与え…」(危機 33節)

というように、超越的な世界は確信・信憑世界であり、意識を超えた「真理」「客観」「絶対」という概念は背理である。

しかし、(混同されやすいが)
「学問に客観的な拠り所を与える客観的真理とは超時間的イデア性の中に存在する客観性であり、絶対同一的なイデア的存在としての真理である」(現象学の理念 訳注 71)

この場合の「客観的真理」とは、理念としての「真理」であり、超越物ではない。それは数学のように誰にとっても妥当し、普遍性を持つ。文脈を見て混同してはならない。

【まとめ】

基本的にフッサールの「真理」とは、「真なる理念」「真なること」「真に存在する」ということで、意識によって得られる「真なるもの」のことです。

その「真理」は誰にも当てはまる普遍性をもつ。「経験的なもの」「数学的・論理学的なもの」「内在的なもの」についての普遍性については、何故それが誰にも当てはまる普遍性を持つのか、詳論が別に必要かも知れません。

(超越論的)現象学では、一切は主観内の現象です。主観と分離した世界(真理、客観、絶対、時間)は背理です。あくまで、主観内で(客観的に、間主観的に)成立する「真理」「客観(性)」「普遍」「時間」を扱います。もしそこに、「客観的な世界」があるとしても、それは経験や間主観性による信憑世界で、主観を超えた、主観と分離したものではありません。

現象学は「客観的な時間」や「客観的な空間」を否定しようとしたのではなく、「客観性の意味」を客観主義や主客図式から取り戻し、本来の姿として提示しようとしたものです。

そして「幾何学的、イデア的」な理念における真理と、経験的な確信世界に対する客観性とは十分に区別しなければいけません。

(補足)

確かにフッサールの「真理概念」は混乱に導きやすく、現象学に「真理」という概念がどこまで必要かは疑問な面がある。外すか別の言葉で表現した方が理解しやすい。

彼の文章には、研究を進めていくと、「真理」という概念を使うべき考察に至った、というよりも、先に「真理」という概念があり、現象学の考察の中でそれに当てはまるものを探すといった志向がある。だから概念の幅が広く、とってつけたように「真理」という言葉が使われている。

こういう志向は当時以前の哲学的状況とリンクしているようである。


現象学的還元とは? [フッサール現象学]

現象学は全て現象学的還元を出発点として考察が行われます。従って、現象学の理解は、何故「現象学的還元が遂行されないといけないのか」「現象学的還元とは何か」から始まります。

しかし、現象学は普通に生きている上で誰もがもっている「自然な見方という固定概念」を完全に打破しないと迷路に入りやすく、「現象学的態度と判断中止は、人格の変化を起こす力さえあり、宗教的回心とも比べられる」(危機 第35節)と言うように、徹底した自己懐疑と反省的直観を必要とします。フッサールのこの言葉を聞くと神秘的な印象さえ受けるのですが、そうではなく、生きていく中で、何らかの思考上の要請がないとなかなか実感として理解できないということです。実感がないと、現象学はただ難解なだけの言葉のカタログになりかねません。

「現象学」「現象学的還元」について何種類かの説明で追っていきたいと思います。

【目の前のパソコンの存在】

「目の前にパソコンがある」ということから始めます。

目の前にパソコンがある場合、このパソコンの存在を疑う人はいません。無理に疑うことは可能ですが、存在を疑えても、パソコの知覚が意識の中にあることは疑えません。

(1)パソコンを100m先に移してみる

そうすると、パソコンの存在確信は揺らぎ、例えば誰かがふと目を離した隙に「パソコンの写真」と入れ替えても、それに気づかないこともある。従って「存在する」とは、絶対的なものではなく、知覚から与えられる確信性の強さに依存することがわかる。

(2)目を閉じる

視覚による確信は失われ、記憶と再想起による「パソコンは目の前にあるはず」という弱い確信に移る。ここで誰かがそっとパソコンを移動しても、私はその弱い確信を抱き続ける。従って、知覚による確信こそが「最も強い確信性」を私に与える。

目を閉じた場合、触覚により「パソコンの存在」を確かめ、感覚が得られれば強い確信を与えるが、「パソコンの形をした物」が置いてあってもパソコンと確信してしまう。従って、視覚と触覚では与える情報の質が異なる。

(3) 眠る

「存在確信」自体が起こらない。これは目を開けたまま眠っても同じである。従って、「存在する」とは、意識のはっきりした状態で意識の統覚、把握作用により行われていることがわかる。

従って、「存在する」とはあくまで人間の状態に依存し、その条件として、「目覚めた意識がある」ということが絶対条件であり、存在確信の強さとしては、知覚(視覚、触覚、聴覚など)が最も強い原的確信を与え、視覚と触覚、聴覚ではその(構成される)質が異なる。

「目の前にパソコンがある」というのは「目の前にパソコンがあると私は確信している」ということであり、現象学は物があるという確信は何故生じるのかと問い直す。「○○があるのは当たり前である」というのは自然な見方(自然的態度)であるが、「○○があるのは当たり前、と私が感じるのはいかなる理由か」というのが哲学的な見方である。

【経験思考の破棄】

我々の思考は経験の蓄積により様々な考えが既に織り込まれています。基本的に全ての人がこの織り込まれ、蓄積された考え(経験的確信、経験的理論)を基準にして物事を判断しています。しかし、「その前提から学問を哲学を出発して本当にいいのか?」ということが問題になる。我々はただ単に経験しているだけであり、経験から思考した場合、その前提となる経験的思考に問題があれば、そこからどこまで考えていってもその思考は全て問題となる。誤った出発点からは、誤った結論しか出てこない。

【元へ還る】

現象学的還元は文字通り、「現象学的に」「元へ還る」わけです。例えば、物が目の前にあるとしても、「物を見ているという意識が働いている」と「意識の働き」の元へ還るわけです。「元へ還る」には「働き」そのものへと目差しを向け変え(反省)、全てが起こっている働きの現場(超越論的主観)を直視し、それ以外の「客観構成されたもの」「蓄積された概念」を全て判断保留(エポケー)します。そうすると全ての事態(事象)はこの現場にあるというのが、よく考慮すると見えてくるはずです。

【意識の本質構造を解明する】

「世界」も「事物」も「他者」も、そして「私」も「私の存在」も、全て「○○についての意識」であり「私の意識の働きによる現れ」でしかない。ならば「意識の働きに還元できる」のであり「意識の働きの本質構造を解明すれば、全ては解かれうる」ということです。自然な態度では隠れている「意識の働き」と対峙するのが「現象学的還元(超越論的還元)」という態度変更であり、その還元により全ては、超越論的主観の世界として描かれ、どこまで客観性を高めようとそれは経験、間主観性としての確信の世界であることが顕わになる。

意識の働きを自我のベクトルのようなものだとすると、自然な態度では、我々はベクトルによって生み出された「結果」をそのまま(疑いなく)受けとっている。しかし、「結果」だけを見るのではなく、ベクトルがどういう風に働いてその結果が生み出されているのかを洞察する。「ベクトル-結果」という構図があるとすると、結果を「一切前提せず」、つまり世界や事物や私の身体や私や価値という「結果」を何も前提せず、ベクトルの方から洞察していき、その末にどう「世界や事物などの結果」が構成され、信憑されているかという構図を明らかにする。

【私の視点に引き戻す】

我々は自然な態度では「私の視点」と「他者の視点」と「超越視点(客観視点、神の視点)」と「相互主観的な視点」を混在して語っています。しかし、後の三つの視点は、実は私の意識によって構成されたものに過ぎません。従って、後の三つは「私によって構成された他者の視点」「私によって構成された超越視点」「私によって構成された相互主観的な視点」であり、「私の視点」に引き戻すのが現象学的還元の役割とも言えます。

【形相的還元】

現象学的還元は形相的還元も役割としてもつ。形相的還元とは簡単に言えば、「理念化(一般抽象化)」することである。文字通り「形相=本質=理念」へ「還元する」ことである。偶然の個別の流動する心理的な現象、事実から、共通的な普遍的な「本質」「理念」をみてとることである。現象学の記述は、その理念の記述であり、何度反復してもその理念を言い当てているよう言語により確定していく。

【間主観的還元】

私の個人的な世界での還元を「自我論的還元」という。しかしその本質法則は他者にも妥当するものであるか不明であり、他者も(超越論的)世界の中で妥当させたままの還元を「間主観的還元」という。それにより、個人的な本質法則は、間主観的な普遍的な本質法則(を目指したもの)として示される。

他者の本質法則、あるいは間主観的、普遍的な本質法則など理解できるのか、という疑問がある。しかし、我々は他者経験、言語を通じて、他者との共通性と異質性、他者同士の共通性と異質性を同時に経験しているのであり、本質法則を普遍的なものとして高めていくことは可能である。

例えば、他者と私、他者同士で、もし視覚に何ら共通性がないなら、他者の行動というのは全て不可思議極まりないはずである。とても同一世界に生きているとは思えないはずである。他者経験は、私の超越論的世界の中で、他者と私と共通の世界の経験として間主観的に妥当している。

よって、間主観的還元は二つの意味を持つものであり、一つは「自我」と「他我」に共通する普遍的な自我の構造を理解しようとする側面と、もう一つは他者と共に共同体の中にいる私ということを理解する側面である。

形相的還元と間主観的還元は、互いに分離したものではなく、見方が異なるだけである。

【現象学的還元によって何が得られるのか?】

現象学は人間に共通する「生(自我)のアプリオリ」の解明である。それを解明することにより、様々な哲学や思想や宗教の対立が、何故対立するのか根本から明らかになる。対立は全て「自我の本質構造、超越論的構造」の理解不足によるものである。

現象学はそれらの考えを全て否定しようとするものではなく、それが独断的なものであるならば、それが見えるようにただ用意されたものであり、根源へ辿れるように哲学として準備されたものである。事実現象(個々の複雑な現実問題)を解決するような万能の薬ではないが、理念的(普遍的、本質的)問題(つまり、いつでも、どこでも、誰でもという問題)として扱うとき背理に陥らずに見通すことができる一つの道筋である。

現象学は洞察するだけであり、創造せず、いわば無思想的である。数学が思想をもたないのと同様である。


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