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観測と空間 (序 / X) [科学系]

科学哲学には大きく分けて実在論と反実在論の二つの立場が存在する。

構成的な科学論は反実在論の一種であり、世界は人間主観、実在との相関存在と考える。

構成論は(素朴な観念論のように)「実在を否定する」のではなく、「実在する」ということの本来の構造を明らかにするのであり、否定するのは人間主観と分離した「自体的な実在」である。

現実は人間相関であり、現実を扱う科学理論の最終的な検証は実験である。ある対象に対し多数の有望な理論が現れた場合、どれを有効とするかは本来実験するしかない。

(未来に)何ら検証可能性のない理論はその妥当性を確かめることができない。

実験は失敗が大半であり、成功は僅かなチョイスの積み重ねである。研究は新たなことの模索であり、それは失敗がついてまわる。既存の範囲からは既存の結果しか生まれない。

経済や社会も人間相関である。従って、経済理論も社会理論も(ビジネスでは通常自然とそうなるように)過去検証や予測に基づいた実験検証が重要視される。

しかし、難しいのは、過去を反復しない面が多くあることや関連要素が多過ぎること、主観、意志、行為、価値判断による変化要素がありすぎるなど、人間行為の偶然、恣意的影響が大きいことである。それにより一般に変化後の側面的解釈論になりやすい。

科学は基本的にその対象について誰が何度繰り返してもほぼ同一現象を生じるのに対し、経済・社会というのはそういうものではなく、人間の社会・経済行為そのものがそれ全体をなす。

科学は、心以外の対象を目指しており、脳などに対する研究も具体対象としての研究である。対象を研究するとき、その内容が主観の差により影響を受けないことを(一応)目標にしている。

しかし、社会や経済はその対象自身が人間主観や他者主観の関係全体である。これらは信用関係の上にある種不安定に成り立っている。

§ 科学理論

科学理論には厳密な理論は本来ない。あるのは現在の考えとして現実的に「より妥当」なモデルである。

「より妥当」という言葉には、経験的、現実的にその対象に則した多数関係する要素を包括する意味が含まれる。

物理学では、「観測する人、行為」や「観測装置」「観測環境」「観測対象の状態」「結果の見方」「満足精度」「既存理論との整合」なども(普段は無意識であれ)含まれる。

物理は数式を用いて表現されることが多いが、数式の答えは現象そのものではない。

理論は人間の知性の側にあり、自然の側にない。

物理は、対象が自然であり、自然は感性を通じた経験である。数式は定義された記号概念と数値の組み合わせであり、数学的理念の形式である。

数学は、数学的理念、論理の内で「閉じる」ので、定義・公理問題など矛盾がなければ一旦完全に証明されると「永遠に真」である。

しかし、物理学の説明は「真」ではなく、装置を媒介した感性現象の中のある反復する因果と数学的理念の「調和」である。複雑多様に絡み合う現実を「ある見方で斬る」ことによって人間に理解できるようにする、その集積である。

よって「永遠に真」というのはなく「現状妥当」なものである。

もしそうでなければ、将来何を発見してもその説明は覆ることはなくなり、それは科学の進化の歴史と現在を否定する。

従って、科学説には幅があり、複雑になるほど妥当~そうでないか考えが分かれる。グレーゾーンから怪しいもの、SF的なものまで何を妥当とするか判断力が求められる。

現象の中での反復が「幾何学」モデルや「数式」「統計」により誰でも観測条件を同一にすれば確認できる場合、それは妥当な物理理論である。

最初は簡便な定義での数式化から始まり、それが無理であれば近似式や幾何モデル・イメージ化、確率・統計的な手法が模索されると思われる。

物理の定義は「真」なものではなく、人間がある基準を元に作った簡便な「現実的ものさし」である。しかし、一旦定義されると、それ以降論理的正誤はある。

例えば、数学において「3」という対象はいつもその理念と一致している。

しかし、ある物体の「3㎝」「3㎏」という現実的対象は人間観測における測定値であり、精密さにおいての誤差の範囲での満足精度である。「理念」から「対象測定」までには人間感性的調和がここに含まれる。

対象に応じて「精密」~「蓋然的」な調和となり、関係が複雑になるほど調和は困難となる。(単純測定や天気予報などを考えればいい)

空間定義も「客観的」にあるのではなく、ある局面では、ユークリッド幾何学が最も簡素で便利であり、ある局面では、非ユークリッド幾何学を用いた方が現実観測に適合した構造を描ける、ということである。

それまでの理論で説明できない現象が発見されると、その理論を包括する、又は異なる理論が模索されるが、どれほど高性能な理論であっても、未知の現象が未来に現れる可能性はいつでもある。

ある有望な理論による予測も「実測」により確かめられるまでは「仮」である。

元々、現在の理論も「現象」に適合しない理論は却下されてきたはずである。従って、有望な理論もそれまでの現象内では有望であるが、未知の現象に対する万能性は保証されていない。

今まで覆らなかった理論もその理論が証明された訳ではなく、帰納的に今まで覆らなかっただけであり、「今までの実験の結果残ってきたので覆る可能性は極めて確率的に低い」としても「全く覆らない」ことが演繹的に証明されてるとはいえない。

現象はあっても原理のないものもあり、それは問題にならない。何故なら、原理は人間にとっての便利な形式であり、自然がそれほど便利さを提供しているわけではないからである。

科学の限界は、自然と数学的理念の形式的「違い」であり、科学の適用は、自然と数学的理念の経験的「調和」である。

近似や誤差がある時点でそうであり、自然は完全には理論化できないが「調和の度合い」を増すことはできる。

§ 特殊相対論の前提

※詳細は解説書やサイトを参照のこと

マイケルソン-モーレーの実験は「光を伝える媒質(=エーテル)」の存在による光速の変化を確かめるための実験である。

エーテルという媒質により光が伝達されるとすると、地球の公転運動と光の方向の違いから光行差が確認されるはずであるが、期待された結果は得られず、エーテルという媒質に疑問符が付される。

この実験は「エーテル」を前提としたものであり、この実験によって「光源運動する光の速度の観測」に結論が下されたとはいえない、または微妙である。

実験結果である干渉縞の観測も「光(干渉縞からの光)の観測」に頼っているのであり「光によって光を観測する」と循環論的問題もある。

ローレンツ等はエーテル説をあきらめず、エーテルに対して運動する実験装置全体は進行方向に縮む(ローレンツ-フィッツジェラルド収縮)仮説を提示する。

ポアンカレはエーテルの存在を否定し、絶対時空から相対時空、絶対視点から観測者視点への転換を行い、特殊相対論の基礎を築く。

特殊相対論についてはローレンツ、ポアンカレを中心に断続的に考察が進められ、科学思想的なバックボーンから必然的に生まれている。

元々特殊相対論は思想的に経験論的(構成的)であり、観測者間の同期という点でも間主観的な考えを用いている。

§ 特殊相対論

特殊相対論を構成的な視点で捉えると次のようになる。

● 人は超越者の視点に立つことはできない

● 本来は、観測者視点しかなく、「そう見える」物理法則を考える

● 「そう見える」というのは「光」によってそう見えるのであり、伝達する媒質である光(電磁波)が届かなければ、物体があろうとなかろうと観測者はそれを把握できない

● 物理的意味での時間や空間の概念は一つの決めごとである

● 物体を「光による意識構成現象」として捉えるのであり、「光(光速)」を中心に観測対象の「時間」「空間(距離)」の概念を転換させる

● 超越者視点での一様な「絶対空間、絶対時間」から観測者視点での観測単位での「相対空間、相対時間」への転換である

● 「絶対空間、絶対時間」では、遠くの物体は瞬時に観測できることが前提になっているが、そのような媒質はなく、光により観測を行った場合には誤差が生じる

● 運動している観測対象の「時間が遅れる」というのは、観測対象にある「時計」を観た場合、光の到達には時間がかかるので、手元の時計と比較すると「遅れているように見える」というだけである(時計、時間の遅れというのは2つの時計の比較でしかない)

● 端的に言えば、物体を観測するとは「物体からの(反射)光を観測する」のだから、「光の加減で」縮んだり、遅れたりして見えるというだけである

● 「見かけ」と「実体」があるとすると、それは「見かけ」の物理法則に過ぎないのではないかという疑問もあるが、そもそも「実体」とは超越者の視点か実体側(観測対象側の観測者)の視点になっている(のであり、そういうものは本来ない)

それまでの物理学は「絶対空間」「実体法則」を基本としていたが、それは「速度無限大の可能観測」と同じことである。

そういう媒質はなく、限界速度をもつ光による観測しかない。

物体観測は光による現象の把握だから、光速を基準にした観測(見え方)の物理法則を作った方が適切である。

超高速なロケットは観測すると「光の加減で」進行方向に「縮んで見える」だけで、実際に「縮む」わけではない。実際に「縮む」とすると、速度を緩めると「伸びる」ことになってしまう。

つまり、現実的観測というのは「あるものさし」との比較であり、「縮む」「伸びる」というのは、その「ものさし」との比較である。

「ものさし」は正しい「ものさし」ではなく、現実観測により適合する簡便な「ものさし」であり、経験的な根拠に基づく。

「時間と空間は、自然が我々にこれを課するのではなくて、我々が便利だと思うので、これらを自然に課するのである」(ポアンカレ)

§ 光速度不変

特殊相対論において「光速度不変の原理は不要」(ジャン・ラディック)という考えがある。

「物体」の運動を観測する場合、物体からの「光(の反射)」に基づく。

絶対空間では、光は無限大の速度をもつのと同じように扱われる。しかし、光は有限の速度しかないから、特殊相対論では光速により観測法則は補正される。

では、「光」の運動を観測する場合、何に基づくのか?

同様に考えるなら、「光」から発する「無限大の速度をもつ媒質」がなければならない。あるいは、「光」から発する「光よりも速い媒質」により、相対論効果と同様に「光よりも速い媒質」に合わせた別の相対論が必要になる。

しかし、そういう媒質はないから、やはり「光」に基づくしかない。

これでは循環論である。

「光源運動する光速の測定」というのは、ある「絶対空間」「無限大速度可能観測」あるいは「光速以上の基準」に基づいた発想である。

そういう媒質は(観測媒質として)ないから、「相対論」では「光速」を基準にした観測者視点での物理法則が考えられた。

従って、「光速度不変」というよりも、「光速は一定にしか観測できないから、視点と光の限界速度を基準にした観測物理法則にする」という方がその思想に合っている。

つまり、「光を基準にする」なら物理的には「光速度不変」と同じである。

「光速度は客観的に不変か?」という問いは本来問題にならない。

何故なら「光速は一定にしか観測できない」(相対観測空間)と「光速度は客観的に一定」(絶対空間)とは意味が違うからである。

「光の客観的性質」が問題になっているのではなく、「光の現実観測的性質」が問題になっている。

「光速は一定にしか観測できない」+「空間とは視点を中心とした光構成による相対空間(主観的空間)である」=「光(速)を中心とした観測物理法則にすればいい」というのがポアンカレの回答と思われる。

簡単に言うと「客観空間はなく、主観空間しかない」その主観空間は「光により構成される」ということである。

視覚により「物体運動を観測する」ということは「光を基準にする」ということであり、それはつまり「人間観測を基準にする」ということでしかない。

人は「視点があり」そこから「空間が拡がっている」とイメージする。しかし、これは後者に客観的な絶対空間が混入している見方である。「視点を中心に光により意識構成されるものが空間」である。

頭の中で自然と第三者的な客観的な構図を描いているのを主観的な構図に切り替えるのである。

そうすると、高速ロケットが縮んだり伸びたりしても不思議ではない。

「ローレンツ収縮はいわば、速度に基づく遠近法の一種である」(ワイル)

物理法則として「視点と光」に「空間」概念を合わせるのは以上のような根拠をもつ。そして「光速」と「空間」から対象の「時間」も導かれる。

一般相対論では「時空が歪む(から→)光が曲がる」と説明されるが、相対論の基本的な考えとして「視点に対する光(の進行)」=「空間」と考えた方が観測法則として妥当ということである。

光を中心に考えた意味での「時空」が相対論の時空である。

「光が曲がったかどうか」というのは「曲がっていない」と解釈される光との比較である。「曲がっていない」光も統計的に通常の光ということで絶対基準ではない。

§ 宇宙

宇宙論を4次元時空で考えることは「上記の意味で」根拠をもち、「宇宙は客観的に4次元である」というのとは異なる。また次元の増加には相応の経験的根拠が必要である。

観測法則を変化させない限り、物理的宇宙空間とは人が「観測できる空間」のことを指す。

電磁波を発しない見えない物質についても、計測は光の歪み(と解釈される現象)を利用し予測している。

では、電磁波などの方法で何ら観測できない物質が宇宙にある場合どうなるのか?

その場合は知りようがないのである。

「全宇宙」は知りえず、人が知るのはその時点までの発見部分である。

その宇宙は、間主観観測的な構成的宇宙である。

(知らない宇宙は、いつも知られた宇宙の外側にあるかもしれないし、ないかもしれない)

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光と同時 [科学系]

人がある事物を見ている時には、その対象を見ているのではなく、対象からの光(発光体の光または反射の光)を見ている。科学的説明ではおおよそこうなる。

例えば、アンドロメダ銀河は「地球から230万光年の距離に位置する」と言われる。

地球からアンドロメダ銀河まで光の速度で「230万年」かかる距離ということであり、つまり今「観測」しているアンドロメダ銀河は「230万年」過去の光ということになる。「今のアンドロメダ銀河」は「230万年」後でなければ見られない。

しかし考えてみると、ここには「ある前提」が存在する。

「同時性」という前提である。

「今の地球」と「今のアンドロメダ銀河」とは「同時」が存在し、「ある距離」離れている。その前提で「今」の「観測者」から見て「対象」は「過去(の光)である」という帰結である。

が、「同時」というのは誰かが観測したものではない。一気に同時に2つの離れた地点の「今」を見ることはできない。

「同時」というのは主観を離れた仮説であり、そこは「超越者の観測視点」の領域である。

ニュートン力学では、空間内のどこにおいても「同じ」絶対時間が存在する。

地球 ←――――――――――→ 土星

7:00 ――――[同時]―――― 7:00

誰がどこにいようと、宇宙上では同時刻が存在する。「同時の絶対」である。

しかし、この「同時」を「誰が見たのか」、「超越者か?」という問題が発生する。どこから、誰が見ても「同時刻」というのは一つの仮説である。

そこで相対性理論では、一工夫される。

地球の[観測者A]――――[対象は光で同期]――――――→ ロケットの先端(7:00)
                  [対象は光で同期]――――――→ ロケットの後端(7:00)

(7:00)地球のある地点X ←――――[対象は光で同期]―――― 土星の[観測者B]
(7:00)地球のある地点Y ←――――[対象は光で同期]

「同時」というのは「ある観測者から見て」設定される。距離が離れている場合でも、ニュートン力学では「超越者視点」で「同時」であるが、相対性理論では「一方の観測者」から見ての時刻しか言えなく、対象側は「光(の速度)」を用いて時刻が同期化される。

我々は、神ではないのだから「誰か」から見た「観測」しかできない。「観測者」は対象物から反射した「光」しか見ていないのだから空間距離が離れた分は「光」で同期させる、ということである。

「観測者」が見ているのは、「ここ」での「光」であり、離れた場所にある物体は「ここ」に到達した光の観測である。では見ている対象は「見かけ上」のものしか観測していないのかという疑問も残るが、それは「誰かから見たもの」なので「見かけの物体」と「実際の本当の物体」と分けることはできない。(分けるなら、「誰かからみた観測」という話から、2つの時点を同時に見た話に変わっている)

「超越者視点」から「観測者視点」に、ということで「客観主義」から「やや超越論主義に近づいた」と言えるのかも知れない。


現実世界は、偶然性の排除できない世界である。偶然性がなければ決定論になる。常態的な部分や予測可能な部分についてもそれは経験的な因果での確実性であり、理念的な普遍真理性ではない。

事実現象のある因果に着目すると、それは「理念」や「数値」によって「理論」として「近似的に」いつでも成立する「法則」を構築できる。

しかし、その法則は、人間の「観測」や「具体的作業」や「装置」や「現象理解」という現実的な行為・理解によって初めて成立するものである。人間の現実的観測行為と相関性をもつものであり、世界自体を「客観世界」として「人間」と分離させることはできない。分離しても厳密には様々なパラドックスが現れる。

「現象」のある因果から「仮説理論」を立てる。それを「実験」により反復させ、「近似的に」どこでも成立し共通理解が得られると、その「仮説理論」は「実的理論」となる。

「現実的実験」 → 「理論」 → 「現実的実証」

と「理論的なもの」と「現実(事実)的なもの」とは次元が常に移動しながら、最終的には、「実証」により「実的理論」となる。「実証」のない理論は「仮説的」にとどまる。(何をもって実証とするのかは難しい)

「実的理論」も事実現象をある観点で切り取ったものなので、新しいより優れた観点モデルが現れると、前の理論は再構築や放棄や条件制限される。観点モデルというと虚構的にも見えるが、経験的な因果を理解するためのモデルであり、モデルがないと実用、応用、改善はできない。

「量子論」などが提示する問題は、これ以上進むと「哲学」になり、「主観的なもの」「経験論的相関性」を考慮しないとよくわからないという所まできていることが多い。そこからは様々に意見が分かれる。本来は「哲学」からその基礎原理についての示唆があるはずである。

少し見た限りでは、現象学とフラーセンの構成主義的経験論がその部分では最も進んでいるようである。この二つは近い関係にあるが、後者はより具体的に掘り下げられている。(和訳が絶版になっているが、本格的なものは人気がないのか・・・)


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光と色 [科学系]

「赤い本」を普通に見ているとする。

自然な(素朴実在論的な)見方では、本という実在物があり、その表面には色が付着していて、その色は「赤」である、と見なしている。

しかし、「赤い本」はいつも赤いわけではない。

真っ暗だと、当然「黒い」だけである。そして「光」の加減に応じて本の色の濃淡は変化する。しかも「光の色」によっても対象の色は変化する。

つまり、「対象物の色」というのは対象に付着する色ではなく、「対象の表面」と「光の反射」との「相関」関係にあることがわかる。光がないと、色もないわけである。

科学的な説明を加えてみると、「赤い本」の場合、光の反射により「赤」と見えるのであるが、実際には、当たっている光は全て反射しているのではなく、青緑色の光を吸収し、残りの赤い光を反射している。その反射した「赤い光」によって「赤い本」は「赤」に見える。つまり人は、吸収されない「残りの光」を見ている。

光は目で捉えるのであるが、目の網膜には光の色を識別する細胞(錐体)があり、赤、青、黄という三種類の錐体で光を感知し、その情報から視神経を経て脳の視覚系部分により色を判断している。

この科学的説明は、現象学の「射映」原理の補完にもなっている。

「射映」とは、「意識に対し与えられるものから、一面的に映し出す」ということであり、事物を「現れ」として映し出す意識の能力を表している。

色についても、色彩の射映原理に従っており、意識に与えられる何らかの色彩的素材から色を映し出す人間の色彩映写能力として考えられる。

色盲(色覚異常)では、色の射映能力に多くの人と違いがあるのであり、赤と緑の区別がつきにくい場合には、色彩射映構造がその部分で人と違っているということである。

人は「対象物の色」を見ていると思っているが、「色を色として映し出す」のは人間の自我の能力である。

「対象物」は自我と相関的なものであり、「対象の色」もまたそうである。

テレビは「光をどう発光するか」であり、写真は「光をどう反射するか」である。色の調整は人間の現実的感覚の満足度での調整であり、それが技術である。

テレビや写真は、「実物に近いもの」を作るのではなく、「実物に近いように見えるもの」を作るのであり、実物に近いように錯覚させる技術である。


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時間の謎(2) [科学系]

哲学にも「時間」の議論は様々あるが、物理学においても「時間」の定義は明確に決まっているわけではない。その定義は理論に応じて変動する。

(本文では「時間」は「客観的時間」を指している)

ニュートン、ライプニッツ、マッハ、アインシュタインなど「時間」だけでなく「空間」においてもその定義は様々である。

そもそも「時間や空間を定義する」とはどういうことなのか?

「実体とは何か」という哲学問題は保留するとしても、「時間」は実体的なものではない。誰も「時計」を見たことはあるが、「時間」の実体を見たことはない。時計は単に一定に動いているだけである。

等速直線運動する物体が目盛上を動いているとする。これを「時計」と考えることも可能であり、物体が円運動すれば、時計と同じような原理である。従って、「時計」は「運動が等速である」ことを満たせば、後は目盛りの打ち方だけとなる。

つまり「(時計の)時間」とは、自転や原子運動など等速運動する(と人間が判断した)基準存在との「単位運動の比較等比」である。すなわち「基準運動との比例」である。

また「空間」も同様であり、実際に「空間の実体」は何かとは言い難い。目の前に空間があるのは確かであるが、空間を「定義」するのはなかなか難しい。幾何学的な三次元空間を通常はイメージするが、日常の事実的空間と幾何学的な空間を「等しい」とすることはできない。

日常の空間はあくまで感性的に経験され構成される生活空間である。幾何的な三次元空間は理念的な空間である。

生活空間を理念的三次元的に表現するとどうなるのか?幾何空間も基準を必要とするが、基準を設けるには何を基準にすればいいのか?「観測者の目」なのか「観測者の意識」なのか「地球のある地点」なのか「宇宙のある地点」なのか?xyz軸はどうとるのか?その軸は、地球の表面(球面)に対してどのような関係にあるのか?複数の観測者がいる場合、その観測点間の関係はどうなるのか?

「時間や空間は、我々が考えるための手だてであって、生きている環境ではない」(アインシュタイン)

物理学は事実(現実)を対象とする。その場合、「事実」をどう「理念化」するのかという定義問題が必ず発生する。

相対性理論では「空間は曲がる」。実際は太陽など重力の大きい物体の側を「光」などが通過すると「光の軌跡」が曲がるのだが、それを「空間が曲がる」と解釈している。(物体により時空は影響を受け、「時空」が曲がる)

このことを「空間が曲がる」とするのか、それとも「空間は同じ(ニュートン的絶対空間)だが、単に光(等)の進行が重力(物体)により曲がる」とするのかは空間の定義(理論)次第である。どちらも同じ事象を指しているのであり、「空間」の解釈が違うだけである。相対性理論の扱う事象では、空間を曲げないと(空間概念の意味がなくなり)理論化は難しいのかも知れない。

だから「正しい空間の定義」が存在する訳ではないと考えた方がいい。

では定義とは何なのか?

「時間の定義は力学の方程式ができる限り簡単になるような定義でなければならない」(ポアンカレ)

つまり、事実学(物理学)としての時間や空間の定義は、「正しい定義」ではなく方程式が簡単になる「最適な定義」ということである。しかし、「最適な定義」を巡り議論になるのには違いない。それは進歩した理論に準じた「最適な定義」であることはやむを得ないのかも知れない。

哲学の議論と物理学の議論を同列で語るのは相当に困難である。事実事象の「理論化」としてある物理は「ある制限付き」の理論(ある条件下で近似的に成り立つ理論)であることが原理上避けられない。従って、いかなる理論も「厳密に正しい理論(基礎づけられた理論)」とは言いにくく、また、実用的な条件下で必要十分な精度の理論であれば「間違った理論」とも言いにくい。人間にとって満足する精度での実験結果と理論との一致なので、数学のように「正誤」ではなく、ある程度「幅のある判断」となる。

ニュートン力学で「十分通用する現実条件内」での理論は、その後に新しい理論が出現しても、それが間違いになるとは言えない。

理念的な「厳密理論」ではなく「実用理論」として考えるなら物理理論はある程度柔軟に利用されるものであり、それで十分な成果がある。しかしここに「定義」(等)を巡る異論が立ち現れることが宿命的となり、昔から論争がつきない(ようである)。


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時間の謎(1) [科学系]

時間の超越論的(現象学的)理解については様々な疑問があるかもしれない。

(a) 客観的時間を表示する「時計」が、意識と分離できないとすると、寝ている時には「時計は動いていない」のか?

(b) 「過去とは過去意識」であり「未来とは未来意識」であり、「意識上の今しかない」ならば、過去の事実というのは一体何なのか?ビデオ録画されている「過去」は「過去」ではないのか?「未来」はいいとしても「過去」とは「幻想」なのか?

(c) 宇宙の過去を論じるのは不毛なのか?

これらを理解するには、自然な時間観から離れる必要がある。



(a) は、「寝ている時に時計は動いていないのか?」という疑問であるが、「寝ている時」には「時計が動くも、止まるも、その意識自体がない」ということで、「動いていないのではない」。

これは、「地球」でも同じであり、「目覚めて」地球の今や過去について思いを馳せられるのであり、「寝ている時」には「地球はない」のではなく、「対象を把握する自我意識がない」。

「主観」-「客観」という図式を頭から取り払わないといけない。

(a) は、主客図式を前提とした疑問である。「寝ている時」に「時計や電車は動いている」というのも、別の目覚めている人の認識であり、「目覚めている時でも」我々は全ての動きを完全に把握しているのではなく、意識の焦点に運動があるときに、その運動を把握する。「動く」も「動かない」も意識の注視による把握である。

目の前の空気の動きも微生物の動きもコンピュータの内部動作も実際は知らないのであり、それらをそもそも「知る」とは何かが問題であり、「対象」は意識相関的に把握されるものである。それらは、装置などを使って、ある観点で注視したときに動作(あるいは非動作)が把握される。

目の前のテレビは「動かない」が、地球が動いていることから言えば、地球外の目線では「動いている」。対象は「今、ここ」における相対的なものである。

(b) については、見ているのは「過去」ではなく、録画された「映像」、ということである。それはあくまで「今見た」ときに、現実の風景と同じように見ることができるように、工夫し作られた機械的なものである。

「過去」を「今」と同じように見ることはできない。「記憶」や「書物」や「映像」を「今、見たり、思い浮かべる」だけである。それは幻想、というのではなく、過去の「構成的把握」を今しているということである。

(c) の疑問は、不毛というわけではない、くらいしか言えないかも知れない。例えば、過去の出来事(事実)については「記憶」や「書物」や「証言」や「映像」によって今「構成把握」する他ないが、それはある観点での一面性を逃れない。今の世界についても完全には把握できない(事実現象が完全把握できるなら、主客一致である)のだから、過去はもっと曖昧になる。

従って、同様に「宇宙の過去」についても「(今における)過去の痕跡(過去と連続する痕跡)」や「今の宇宙の動きから過去の宇宙を想定して」理解するしかないが、それがどれほど的確なのか、その「的確さ」の話自体が難しそうである。ここには「事実(現実)」を理解するとは何なのか?という問題があり、理念と違い経験的なものなので、その明確さと曖昧さは現実性で判断するしかない。今の宇宙が様々観点での「構成的把握」なら、過去の宇宙は更に曖昧な「構成的把握」である。ただ、宇宙が全くランダムな偶然の動きをするわけではないので、どの程度の確かさで言えるのか、ということである。


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タイムマシンと時計 [科学系]

「タイムマシンは可能か?」を(何故かしら)考える。

まず、タイムマシンは客観主義的な時間軸を前提している。
あるいは、主客二元論、主観-客観の構図として「主観を離れた客観時間(過去-今-未来)」を前提している。

従って、このような立場が「背理」であれば、話を進めても意味がない。
背理から始めても、いくらでもパラドックスは現れる。

つまり「今しかない」ということである。
(現象学的な「生き生きとした今」「超越論的な意味での今」のことである)
過去とは「今」における「過去意識」であり、未来とは「今」における「未来意識」であり、意識と分離した時間を考えることは、自体的な「客観」を前提している。

全ては目覚めた意識でのことであり、主観と分離できない。更に「意識の流れの中にある内在的な時間意識(内在的時間)」と「構成された調和的な客観性をもつ時間(客観的時間)」とは区別される。前者と後者の普段の調和が崩れると、「時間が早く感じた」「時間が遅く感じた」となる。

客観主義的な時間(過去~未来)も、主観的認識(今における認識)を前提している。もし「過去に行く」「未来へ行く」ことが可能なら、その時の「今の意識」とは、一体何を基準とした「今」なのか?その基準はどこから発生したのか?二元論構造を堅持している限りパラドックスは続くのであり、パラドックスはいくらでも作りえる。

わかりにくいのは、先ほどの「客観的時間」の考え方である。それは主観と分離できないとすると、「時計」のような「客観的時間」というのは一体何ものなのか?という疑問が現れる。

今の時計というのは、元々古代からあったものではない。(細かい話は省略するとして)地球が太陽に対して1回転したときを1日と定義し、そして24時間、60分、60秒と分割、それは人間の都合で定義されたものでしかない。そしてその定義に合うように、時計という時間を計るための機器が作られるわけである。

1日の始まりも人間の定義したものであり、ある基準を設けることにより、世界の誰でも客観性(人間にとっての共通性)のある認識を得ることができる。

つまり客観的時間概念も、人間により概念化された「時間」と「計測」により成立している。時計もそれに合わせたものでしかない。時間は時間概念と数値による計測量であり、時間概念及び数値の認識共通性が保たれている限り、「客観的時間」が保証される。

動物にとって客観的な時間(が想定できるなら)とは、日照や季節的なものの知覚による曖昧なものでしかないだろう。それは古代の人間にとってもそうであり、文明が進むにつれ実用性に応じてデジタル化され世界標準化されただけである。

「客観的な時間はない」、のではなく、それは「客観的な空間」と同様に生活空間の中で常態的なものとして「いつでも同じようにある」ものであり、常態的な事実基盤(現象学的生活世界)としてあるものでしかない。しかしそれは「意識」と分離されるものとしては措定できない。

(注)

「1秒の定義」は、地球の自転が周期的でないことにより、現在セシウム原子の振動数により厳密に定義されている。


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